格好つけた句である。若さに近い青さも感じる。
この世の果てとは一体どこなのだろう? 北海道の野付半島? ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬? きっと、どこでもない。この句は、例えば芭蕉の〈荒海や佐渡に横たふ天の川〉と違い地名に言及していない。
人生は旅だとよく言う。そしてその旅は、もしかすると明日突然終りを迎える可能性もある。そういう意味では、私たちは常に“この世の果て”を生きているのかもしれない。
作者は天の川の下で悠久の宇宙を感じ、生と向き合っている。句が深刻にならないのは「旅寝」による「かるみ」だろう。
壮大な句ではあるが、一方で季語の「天の川」の取り合わせが安易な気もする。全体が大掴みなので、芭蕉の句のようにもう少し具体的な季語(もしくは言葉)を取り合わせることで、より深みが増すのではないか。
まぁこういった格好つけた句、私は好きなのだが。(森凜柚)
「世」には「この世」と「彼の世」とがあるとされている。古来「天の川」は「彼の世」と結びつくものと考えられていた。「この世」を後にした者は「天の川」の無数の星の一つになる。だから、この句の主人公は「この世の果」に「旅寝」しながら、やがて訪れることになる「彼の世」を遥かに眺めていると言っているようだ。
「天の川」の後に切れがある。この切れは「この世」と「彼の世」との切れ目のように深い。そこにはまさに広大な時空が広がっている。「この世の果に旅寝」する者の命のはかなさと「天の川」という悠久の世界が一つの詩的空間を創り出しているのだ。
作者はかつて自らの著書を『俳句の宇宙』と名付けた。俳句はちっぽけな詩であるけれども無限の宇宙を孕んでいる。そんな思いがこの句にも込められている。(村松二本)