肌のものほのかに白し夕涼み『松島』

 この句を読んだ何人かは黒田清輝の「湖畔」を思ったかもしれない。私もその一人だ。色白の女性が夕涼みをしている。当然「肌のもの」つまり肌に纏っているものは薄く「ほのかに白し」ということになる。ではこの句の読みどころはどこにあるのだろう。
 この句は『松島』の中の「淡海」の項に掲載されている。ここには琵琶湖で詠んだであろう句がならぶ。場所は琵琶湖を渡る気持ちよい風が吹き入る旅館の二階だろうか。
 「肌のもの」を「ほのかに白し」と感じるのはすこし日の傾いた夕暮だろうから「夕涼み」とあるのは納得だ。しかしこの夕暮はどうも実際の時間だけを表しているわけではないような気がする。お互いの存在が当たり前になってきた結婚生活の夕暮をも感じさせる、とは深読みし過ぎだろうか。作者は部屋の窓辺に座る妻の存在をあらためて認識した。そこには人間としての女性というよりその象徴である「肌」、そして「ほのかに白し」と感じられる浴衣の布だけが見えていた。もはや琵琶湖を渡る風そのものになっていたのかもしれない。
 作者が妻をそのように見た時、ある感情が生まれたに違いない。しかし作者はその感情を抑え「肌」と布だけに焦点を絞って詠んだ。作者の妻を見る視線のこの冷徹さこそがこの句を一句として成り立たせていると言えよう。作者はこの視線を手に入れることこそが俳句なのだと言っているような気もする。(三玉一郎)

 「もの」が私にはわからない。海のもの山のものならわかるが、「肌のもの」の用例は見たことがない。「ほのか」に付く接頭語なのかとも考えてはみたが、やはり聞き慣れないし、「ほのか」だけでぼんやりはっきりしないさまを表すのにわざわざ「もの」を付けて言う人はまずいないだろう。
 おぼろげに浮かぶのは、谷崎潤一郎著『陰翳礼讃』の世界である。同著には一箇所、「……あゝ云う白い肌のものも……」というくだりがある。ここでは人肌でなく豆腐やら蒲鉾の肌の話なのだが、「和」の物はピカピカな電灯の下より「覚束ない蝋燭のあかり」で見た方が引き立つというのが谷崎の言い分だ。同様に、掲句は「夕」という陰翳における「白」の美を表現しようとしているのだろうとは思う。
 もう一つ、「ほのかに白し」が芭蕉の〈海くれて鴨のこゑほのかに白し〉を彷彿させるという本歌取りの問題もある。ただ、私はいまだに「もの」が腑に落ちていないので、意見は控えておく。(イーブン美奈子)