琵琶湖の西南、堅田での旅吟。三上千那ら、この地の芭蕉の門人たちを憶い、芭蕉最晩年の師弟の交わりを「雲の峰」と敬慕している。堅田からは山側に比叡山、比良の山々を、対岸に伊吹山を望むことができる。雲の峰の下には両岸の山々がひろがっている。歴史と現在、空間的なひろがりを重層的に詠んだ句だ。歴史的・空間的・文化的重層性をふまえた、芭蕉が愛した堅田という風土への挨拶の句でもある。
掲句は第六句集『松島』所収。2002年から05年にかけての吉野、近江、松島の旅吟を収めた旅の句集だ。新聞社退社後の筆一本での生活が可能にした句集でもある。それゆえに、句集全体に自由人としての矜恃や解放感が溢れている。
何度か訪れたのだろう、堅田を中心とする近江を詠んだ春夏秋冬の連作が52句。創業文化2(1805)年の造り酒屋の地酒を詠んだ〈蓬萊や酒は淡海の浪の音〉に始まる。〈衣被蕉門十哲誰々ぞ〉の句もある。堅田はかつて湖南の水運の拠点として栄え、商業の盛んな自治都市でもあった。「湖族の郷」でもある。繁栄の名残を、今も芭蕉ゆかりの浮御堂などにとどめる。(長谷川冬虹)
芭蕉は奥の細道の旅の二年後、丈草、支考、近江膳所の正秀らと琵琶湖畔で月を楽しみ、〈鎖あけて月さし入よ浮み堂〉と詠んだ。堅田には、尚白、千那の古い門人がいたが、芭蕉が奥の細道で得た「かるみ」についていけず離反している。しかし近江には丈草、許六、曲水、乙州ら芭蕉の信頼する門人達がいる。よって、掲句の「堅田蕉門」とは広く「近江蕉門」と捉えてよいだろう。膳所の義仲寺には大坂で客死した芭蕉の遺骸を船で運び葬った墓もある。
櫂も師である飴山實と琵琶湖周辺を吟行し、また「古志」の弟子達と浮御堂近くで月の句会を開いた。
掲句は、なぜ近江としないで堅田としたのか。それは、音の響きとリズムのためである。上五、中七、下五すべてがK音で韻をふみ、さらにK音が5回繰り返されることで、夏の力強い生命力を表す季語「雲の峰」とよく響き合っている。雲の峰は実景だったかもしれないが、今後も停滞することなく自分の俳句の世界を広げていこうとする櫂の覚悟が表れている。(齋藤嘉子)