村ぢゆうの畦あらはるる雪解かな『虚空』

 冬の間、雪に覆われた田んぼ、そこへ春の暖かな日が射す。解け始めれば、雪はすぐになくなり、黒々とした田んぼの畦が顔を出す。山の陰にあるのか、一日中日が当たるのか、スピードは違うだろうけれど、村のどの場所にあっても必ず畦の土が表れる。作者が在住した新潟の景であろう。季節が移り春がやってくる、その喜びに溢れた句である。
 評者には〈どの子にも涼しく風の吹く日かな〉(龍太)が思い起される。もちろん、春の畦を詠んだ掲句と、夏の子供たちを詠んだ龍太の句とは、季節も対象も異なる。しかし、「かな」を使った一句一章立ての形式だけでなく、分け隔てなく、万人、万物に訪れる四季の恩恵を謳っている点で共通した感興を覚えるのである。これから草が芽吹き、青々と伸びる春の畦は、夏の涼風を受けて走り回る子供と同じエネルギーに満ちている。
 四季の変化から生命エネルギーを授かるのは、自然も人間も同じだ。田の畦や子供はその象徴でもある。戦前に歌われた「天長節の歌」に「恵み遍き君が代を」という歌詞があるそうだ。まさに掲句も季節を司る神、その遍き恵みへの挨拶といえよう。(臼杵政治)

 春の到来を寿ぐ一句。雪国の深い雪が解けると、畦が黒々と顔を出す。あちらでもこちらでも次々に畦があらわれる様子を「村ぢゆうの」と詠んでいる。そこに、その土地を愛おしく思う気持ちが込められている。つやつやとした黒い土と、残る白い雪の対比が美しい。
 掲句はまた、一茶の句〈雪とけて村一ぱいの子ども哉〉を思い起こさせる句でもある。一茶の句からは、賑やかな子どもの声が聞こえてくる。村に守られた、ほっぺの真っ赤な子どもたちの姿も見える。しかし、掲句には、人は描かれていない。それでも、人の姿が感じられる。それは、この畦は人の手が作り、手入れをしてきたものであろうからだ。
 畦に焦点が絞られているところから、その土地だけでなく、その土地に住む人を愛おしく思う気持ちが伝わってくる。これから、この村にも春の水が滔々と流れ、だんだんと田んぼの仕事が始まるのだろう。(藤原智子)