高々と筧を渡し雪の庭『虚空』

 筧とは、「ふしを抜いた竹や中心部をくりぬいた木を地上に架設して水を通ずる樋」(広辞苑)である。雪深い庭の高いところを樋が渡してあるのを作者は見止めた。雪に埋もれてしまわないように積雪の最大値を見越して高いところに筧を渡してあるのだろう。「高々と」と、その高さが強調されている。この表現により、この庭のある地方の雪の深さがわかる。さらには、筧を走る高き水音まで聞こえてくるようだ。
 雪は「雪月花」と呼び習わす風雅の代表格。「雪の庭」と言っただけで、すでに文学的な情趣が立ち現れるが、「高々と筧を渡し」と即物的に見たままを描くことで、風雅に流れる空気を引き締めている。どこからどこへと筧が渡されているのか、筧の中には水が流れているのか、どれも描かれていない。が、描かれていないからこそ、読み手は自由に想像し得るという、俳句ならではの表現となっている。
 またこの句は、雪景色を背景にくっきりとした筧の線だけが強く印象に残る。その線が、ルチオ・フォンタナの「空間概念」におけるキャンバスの切り込みのごとく、無限の空間への入り口となり、読み手を虚空に連れ出す。
 掲句は、一見変哲もない写生句とみえるが、この句を包含する句集の名が『虚空』であることに気が付けば、「筧」が、ただの「筧」から、虚と実の架け橋としての「筧」として象徴性を帯びて立ち上がってくる。櫂は、一本の筧を渡して、虚空に切り込みを入れているのだ。(渡辺竜樹)

 はてさて厄介な句だ。雪は止んでいるのか、激しく降っているのか。時分は空気の澄んだ朝方か、どんよりとした重たい昼かあるいは夕暮れか。庭はどこにある、広いのか端正な坪庭か。そして筧はどこから来てどこへ渡されているのか。いや筧は作者の心象かもしれない。雪の庭に幻の筧が高々と渡されているのかもしれない。
 静かな気持ちで句と向かい合えば、筧からの水音が微かに聞こえるようにも思える。反対にこちらの気持ちに屈託のあるときは、激しく降りしきる雪のなかに渡された幻の筧が見える。まるで修羅能のシテのような荒々しさが感じられる句となる。こちらの気持ち次第で、いかようにも取れるのだ。まるで禅問答だ。
 句集『虚空』のあとがきに、「この間、飴山實先生はじめ大事な人々が相次いで亡くなり、『虚空』という題が自ずから定まった。天体もまた生命も虚空に遊ぶ塵に等しい。」とある。この句集の通底には虚空に遊ぶ塵がある。筧もまた天地を貫く塵なのだ。(きだりえこ)