湯豆腐や瓦礫の中を道とほる『震災句集』  

 東日本大震災の地震や大津波で多くの家屋が崩壊して瓦礫と化し、冬を迎えても尚そのままそこに置かれている。冬の季語「湯豆腐」は家族のささやかな日常を象徴している。この季語によって、震災が起こる直前までの人々の日常が瓦礫と化してしまった哀しみや憤り、嘆きの声が聞こえる。被災者に寄り添う作者の心が背後に浮かぶ一句だ。
 そして注目するべきは「瓦礫の中を道とほる」。この道はもともとそこにあった道ではなく、まだ行政の手が及ばない瓦礫を、住民が除けながら作り出した道と読みたい。それは復興へのささやかな歩みであり、震災前の生活に少しでも近づきたいという被災者の強く、どこかやるせなさを込めた道ではないか。
 14年経った今も道半ばという現実がもどかしい。復興の行方を注意深く見守りたい。(髙橋真樹子)

 『震災句集』には、2011年3月11日の東日本大震災を挟んで、ほぼ一年間の句がまとめられている。
 掲句の中七下五「瓦礫の中を道とほる」は、ただ事実を淡々と描いていて、まるでニュースの映像のようであるが、上五「湯豆腐や」と取り合せることで、主に二つのことが見えてくる。
 一つは時の流れ。同句集の〈一望の瓦礫を照らす春の月〉と比べれば、半年以上の時を経てようやく道が通ったこと、同時に、まだ瓦礫が残っていて復興への道のりが遠いことが窺われる。もう一つは、「湯豆腐」が象徴する日常性。過酷な状況の中でも、当然ながら、人々の生活は日々着実に続いていくのである。
 同句集には、「俳句で大震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない。」「どんなに悲惨な状況にあっても人間は食事もすれば恋もする。」という作者の言葉があり、他にも〈いくたびも揺るる大地に田植かな〉〈悲しんでばかりもをれず薺打つ〉といった句が見られる。(田村史生)

銀どろの枯葉送りてくれし人『震災句集』

 宮沢賢治が教師をしていた花巻農学校跡には賢治の愛した銀どろの木が植えられ、今は「ぎんどろ公園」となっている。銀どろの葉は薄く数センチの長さで葉裏が銀白色なので「ぎんどろ」と呼ばれている。
 掲句のすぐ後には〈銀どろの銀の枯葉の五六枚〉が続く。俳句としてはこちらのほうが「銀の枯葉」と、「銀」を二度繰り返していることから、思いがけず葉を手にしたときの喜びがよく表れ、すぐれている。
 掲句は単なる報告のただごと俳句ともとれるが、「人」で終わっていることからこの句になんともいえない柔らかみを与えている。そして、その枚数は五六枚と次句が説明している。
 葉を送った人と受け取った人との日常のささやかなやり取りがかけがえのないものと思わざるを得ないのは、この二句が『震災句集』に入集され、未曾有の東日本大震災の句群にそっと置かれているからだ。また、一冊の句集のめりはり、緩急とも言うべき句の並べ方のヒントがここにある。(齋藤嘉子)

 銀どろは柳の一種で、宮澤賢治が好きだった樹だ。賢治が教鞭をとった花巻農学校跡のぎんどろ公園には、賢治も見ただろう背の高い銀どろの木がある。「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」。「雨ニモマケズ」の末尾に至る一節だが、この「デクノボー」のイメージは、銀どろの木ではないか、と私はひそかに思っている。華やかさなどと無縁な、無器用そうな地味な木だ。
 花巻市生まれで北上市在住の古志同人・及川由美子さんには『ぎんどろ』という名の瀟洒な句集がある。
 銀どろの葉は少し厚手で、本にはさんで栞のように用いることができる。
 歌を添えて花や紅葉を贈ったりするのは、『源氏物語』などでも印象的だ。掲句では、これが銀どろの葉ですよ、と手紙に添えられていたのだろうか。
 『震災句集』(2012年)は、東日本大震災で被災した東北地方への励ましの句集でもある。掲句は、銀どろの葉への返礼の句であり、送り主の心遣いを讃えている。(長谷川冬虹)

人変はり天地変はりて行く秋ぞ『震災句集』

 2011年3月11日、東日本大震災が起きた。文字通り、天地は一変し、人の暮らしも一変せざるを得なくなった。この変わりゆく世界を悲しみつつも、この世の無常を受け入れ、それでも前に進もうという力を感じる一句。
 この句において重要なところは、人と天地が並列に詠まれていることだろう。この句には、人(人間)が天地(自然)の一部として、変化を受け入れざるを得ないという前提がある。天地が変われば人も変わらざるを得ない。しかし、そこで嘆くわけではない。むしろこの嘆きを捨てる力が、この句を支えている。
 春ではなく秋なのは、この変化を捉えうるまでに時間を必要としたということだろう。人も天地も変わる。その変化を受け入れる時間であると同時に、自然の一部として埋没するだけの人間を捉えなおすことで距離が生じている。力はそこから湧いてくるのだ。
 もちろん東日本大震災と切り離して読むことも可能だし、そうすべきであろう。この一句で、老いという人ひとりの変化と季節のうつろいを思うこともできるし、または、鎌倉時代初期の随筆『方丈記』の世界を想像してもよいだろうし、あるいは新型コロナウイルスのようなパンデミック後の世界や温暖化する地球環境を想うことさえできる。
 もはや嘆いてばかりいられない。(関根千方)

 『震災句集』は、2011年3月11日の東日本大震災の約1年後に出版された。巨大地震と津波、原子力発電所の事故という未曽有の大災害に日本中が不安と混乱の渦に巻き込まれた。
 多くの命が奪われ、故郷を離れ避難生活を余儀なくされる人が数多いた。長谷川櫂は事故直後十日ほどは、憤懣とやるせない思いを怒濤のような荒々しいリズムで短歌に詠んだ。『震災歌集』が『震災句集』に先立って出版された。はからずも、短歌と俳句の違いを感じとることになった。2017年に『震災歌集 震災句集』(青磁社)が出版されたので、詩のリズムの違いを見ていただけたらと思う。
 俳句は全部言えない。だが掲句は、「人変はり天地変はりて」で大震災の惨状が描かれ、「行く秋ぞ」からは「間」が生み出す静かな心と、「ぞ」の強い意志が胸に迫ってくる。〈大地震春引き裂いてゆきにけり 櫂〉(『震災句集』)の無残な春から秋へ。どんな悲惨な状況であっても、時が止まることは無い。言葉の力をあらためて感じた。(木下洋子)

みちのくの果ての果てまでけふの月『震災句集』

 「みちのく」こと陸奥国はもともと道奥国(みちのおくのくに)と呼ばれ、いわば本州の果ての地として認識されていた。中七で「果て」が二度繰り返されるが、上五にも果ての意味・音感があることから、三重四重のリフレインをなすと言ってよい。従って、掲句の作者はみちのくから離れて住んでいることが想定される。簡単に移動ができない人間と、のびやかにどこまでも進んで行ける月光との対比が際立つ。
 みちのくの地は歌枕の宝庫だ。武隈の松、中尊寺を流れる衣川、象潟の島々、古歌に詠まれ都人の想像と創造を刺激した地のことごとくに名月の光が降りそそぐ。
 交通手段の発達した現代では昔と比べてずっと行きやすい土地になった。しかし、それを離れた土地から詠むにあたって想像力を働かせなければならないことは同じだ。みちのくを訪れたことのない読者は、句を読んでまだ見ぬみちのくに想いを馳せる。一方、実際にみちのくを訪れたことのある読者は、自分の記憶の中のみちのくを句に重ねてもいい。作者の想像力と読者の想像力が交感し合うことで、句の世界は限りなく広がる。(市川きつね)

 『震災句集』は、東日本大震災を挟むほぼ一年間の句を、作者曰く「俳句のもつ悠然たる時間の流れ」のなかでまとめた句集である。
 掲句は、「比叡山」と前書のある月の二句のうち、先に置かれた一句。2011年の中秋の名月は9月12日、震災から半年後、霊場比叡山で月を見上げる作者の心に浮かぶのは、やはり被災地のことであった。「みちのく」自体が「陸の果て」という意味を持つが、さらにその「果ての果てまで」今宵の月が照らしているというのだ。くまなくこの世を、あるいはあの世までも同じ月が照らし、そして、多くの人々が、それぞれの思いを抱いて同じ月を見上げている。どのような悲惨な状況にあっても、月は満ち欠けを繰り返し、この年も変わらず美しい姿を見せた。非情さのなかにも、鎮魂の祈りの満ちた句である。
 なお、掲句に続く句は、〈みちのくをみてきし月をけふの月〉であり、ともに平易な言葉でありながら、二句が呼応するように、深い印象を残す。(田村史生) 

桐一葉さてこの国をどうするか『震災句集』

 掲句は、『震災句集』(2012年)所収。一句前に「首相退陣」という前書きを持つ〈政局や今ごろにして柳ちる〉の句がある。東日本大震災後の混乱の中で、小沢一郎らの民主党内からの揺さぶりによって首相菅直人が退陣に追い込まれたのは2011年9月だった。掲句はこの首相退陣を受けた句でもあり、ひろく震災と福島原発事故後の日本の再建をどうするのかを読者に問いかけている。
 言うまでもなく高浜虚子の〈桐一葉日当りながら落ちにけり〉を踏まえる。桐の葉は皇室の紋としても使われてきた。豊臣秀吉は桐の紋を好んだ。大きな桐の葉は王者性のシンボルであり、国家権力の象徴でもある。〈この国を菖蒲の風呂で洗はばや〉〈願はくは日本の国を更衣〉〈滅びゆく国のかたみの団扇かな〉など、『震災句集』は幾つもの憂国の句を収める。
 東日本大震災から12年7ヶ月。日本の政治も経済も社会も、下り坂を転げ落ち続けている。「この国をどうするか」、混迷からどう脱却するのかという問いは、いまだ確たる答えを得ていない。(長谷川冬虹)

 掲句は、「桐一葉」のあとの大きな間を「さて」でおおらかに受けとめ、まるで徳川家康が今後の国造りを思案している景を描いているかのようだ。
 しかし、この句は東日本大震災が起こった2011年秋に詠まれ、『震災句集』(2012年)に入集。2011年に櫂は『震災歌集』を上梓し、為政者や東京電力を痛烈に批判したが、『震災句集』では、その批判の矛先は自分を含む国民一人一人に向けられている。『俳句的生活』(2004年)第五章で、投票の一票も支払うお金一円も、自分が願う社会への意思表示であり、国民の総意としての社会が形成されると述べている。櫂は、この句で自分と読者に日本をどのような国にしたいのか、そのために一人一人が何をなすべきなのかと静かに質している。
 安価な電力を国民は求め、結果原発事故が起こった。国民の一人としてその反省と自責が〈福島をかの日見捨てき雪へ雪〉(句集『太陽の門』2021年)の句となった。(齋藤嘉子)

迎へ火や海の底ゆく死者の列『震災句集』

 東日本大震災では、19,765人が亡くなり、2,553人が行方不明だ(令和5年3月1日時点)。その多くは津波が原因だ。津波のあと、体育館に何百という人々が安置されていると報じられていた。数えきれないということに胸がつまる思いがした。
 掲句の「迎へ火」は、お盆に家に帰ってくる祖先の魂を迎えるために門で焚く火のこと。だが、家族で津波にさらわれ、「迎へ火」をする人もおらず、どこへ帰ってよいかわからない魂もいるだろう。帰ることができず、「海の底」を「ゆく」しかない魂。年代や職業もさまざまな人を「死者」という言葉でとらえるのは非情である。しかし、そう言い切ることで作者は、それぞれの人の無念を表現したのではないか。
 そして、この句でもっともかなしみが表現されているところは「列」である。生きていたときの格好のまま、地震と津波が来る前の姿のまま、列をなして立って歩く姿を心に思い浮かべる。体育館に横たわり、数えきれなくなる前の、一人ひとりの姿だ。(藤原智子)
 
 東日本大震災から約1年後に刊行された、『震災句集』の一句である。実際の作句は2011年の盆の頃だろう。句の前書きによるとダンテ『神曲』の一部(地獄編の第三曲)から想を得ている。
 東日本大震災の犠牲者(死者、行方不明者)はおよそ2万人、その多くは津波に呑み込まれた。今でさえ、ご遺体が見つかっていない犠牲者は数多い。初盆を迎え、まさに海の底を歩いて帰ろうとしている、御霊の姿を詠むことを通じて、犠牲者を鎮魂し、帰りを待つ家族に寄り添うような句である。
 ところで句集のあとがきで作者は、言葉に代わって「間」に語らせ、季語を用い宇宙の巡りに従う俳句では(やむにやまれぬ思いを表した短歌とは異なり)震災を詠んだとしても非情なものになるだろうと言う。掲句にも当時の被災者の悲しみや不安を完全に再現できてはいない、という感想もあるだろう。半面、掲句は現在2023年の句として読んでも決して色褪せていない。戦争で海中に投げ出された人々など、海の犠牲者への鎮魂の一句だと言っても通じる。俳句の時代性や社会性についてもう少し考えてみたくなった。(臼杵政治)