太箸や国生みの神さながらに『富士』

 静岡県熱海市伊豆山にあった旅館「蓬萊」で詠まれた正月の一句。太箸で何かを食べている様が「国生みの神さながら」だというのだ。
 現存する日本最古の書物『古事記』で語られる「国生み神話」では、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱の神さまが高天原の天浮橋(あめのうきはし)から天沼矛(あめのぬぼこ)をおろしてかき回すと、海水がコロコロと鳴った。矛を引き上げる時に、矛の先から滴り落ちた塩が重なり積もって島になった。それがオノゴロ島、日本列島の始まりだ。
 掲句では何を食べたのか詠まれていないが、『古事記』の「国生み神話」を連想すれば、太箸の先から汁が滴り落ちるものということだけは浮かぶ。食べたものを具体的に詠まないことで、一句の中の余白は大きくなる。この大きな余白によって、新しい年を迎えた喜びもまた大きくなる。年の始まりを俳句で表現するとは、こういうことかと教わる一句だ。(髙橋真樹子)

 太箸は、新年の膳に用いられる白木の太い箸で、多くは柳から作られる。新春を祝う席で、万が一折れることがないよう、両端よりも中央部分が太くなっている。
 国生みの神とは、『古事記』に登場する伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)のことであろう。この二神が天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛(あめのぬぼこ)によって混沌とした地上を掻き混ぜ、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのころじま)になったというのが、国生み伝説である。
 太箸で雑煮を食べていて、箸から滴り落ちる汁、あるいは、お椀のなかの餅を見て、まるで国生みのようだと見立て、大らかに新年を寿いでいるのではないか。その情景は大胆に省略されているが、上五「太箸や」で切り、そこに間を生むことで、読む者に自由な想像を促す効果を生んでいる。
 句集『富士』では、掲句の後に〈双六や真白き富士の裾とほる〉が続き、やはり同様の作りと見立てで、大らかに新年を寿いでいる。(田村史生)

伊勢えびの髭すいすいと花の春『富士』

 「伊勢えび」と「花の春」と新年の季語が二つ重なり、なんともめでたい句である。
 伊勢えびは縁起物なので、この長い髭が大事で、刺し網から外す時細心の注意を要する。ところで「すいすいと」は本来軽快に前へ進む様子を表す言葉だが、この句の場合は、髭の長さを強調するために使われている。「花の春」と下五で受けとめることで、場面は正月、そしてこれからの一年の時間軸に移り、新しい年が「すいすいと」滞りなく進んでいくことを願う、言祝ぎの句となっている。
 作者は句会で、俳人はオノマトペの使い方が上手いのは当たり前で、もしオノマトペを褒められたら、他に褒めるべきことがないということだ、と言っている。しかし、掲句の「すいすいと」は、三次元の場面に時間の流れが加わった四次元的用法となり、さりげなく使われているが、見事な使い方だ。言葉ひとつでがらりと場面が変わり新たな世界が生まれるのが俳句のおもしろさだ。(齋藤嘉子)

 かつて熱海にあった割烹旅館「蓬萊」にかかわる旅の句集『富士』(2009年)所収。「花の春」は新年の美称。これからおせち料理に供される活きた伊勢えびの元気なさまを「髭すいすいと」と形容。蓬萊で正月を迎えた慶びを表現した挨拶句だ。同じ句集に〈初春や生きて伊勢えび桶の中〉という句もあるが、説明的で生彩を欠く。
 この二つの句には、新春のめでたさを伊勢えびという素材で詠む難しさがある。季重なりもややくどい。掲句は「髭すいすいと」が眼目だが、この擬態語が、弾むような調べを生み出すとともに、句の印象を軽くもしている。
 『富士』所収の食べ物の句では、〈煮凝やわだつみの塵しづもれる〉〈煮凝や今宵は海の音もなし〉のように、渋い題材の句の方が断然光っていると私は思う。
 歳時記を繰ってみても、伊勢えびに秀句は乏しいようだ。伊勢えびの姿・美味を俳句で超えることはさほどに難しい。(長谷川冬虹)

このあたり煙のごとく山眠る『富士』

 2009年5月発行の句集『富士』の一句。この句集では、熱海近郊の伊豆山にあった老舗旅館「蓬萊」で詠み、50句ずつ雑誌に寄稿した俳句をまとめていると言う。
 掲句の眼目は「煙のごとく山眠る」にある。北栄の画家郭煕の『林泉高致』の一節「冬山惨淡として眠るが如し」を語源とするという冬の季語「山眠る」は、あらゆる生命活動が停止されている様子を「眠る」という語に集約している。「煙のごとく」という措辞は、活動が休止し、いのちがそこにあるかないかもわからない、消えてしまいそうな状況の直喩であろう。あるいは、この句の直後の〈火の神の山懐に冬ごもり〉と合わせて、富士山から伊豆に至る火山活動が地中に秘められたまま、冬を迎えた状況を煙に喩えていると読むこともできようか。
 この中七、下五の比喩を活かし、これらに干渉しないよう「このあたり」という上五が巧みに措かれていることにも注目しておきたい。(臼杵政治)

 描かれているのは山だけだ。「煙のごとく」であってその実体はない。「このあたり」とはどこか。句集あとがきに、伊豆山の蓬萊という旅館で詠んだ句が「積もり積もってこの『富士』という句集になった」とある。また、この句の前に〈太陽のとほれる道に返り花〉が、この句の後ろに〈火の神の山懐に冬ごもり〉があるので、「このあたり」は、作者が冬籠りする伊豆山だろう。
 では、「煙のごとく」とはどんな様子か。伊豆山という地は、伊豆山温泉と伊豆山神社から成る。伊豆山温泉は、横穴式の源泉が相模の海へ勢いよく流れ出し、「走り湯」と呼ばれる。伊豆山神社の本殿の下には、湯の神を祀る走湯神社がある。「煙」から火の神の力を感じる。
 しかし、意味では「煙のごとく」は理解できない。ぼーっと大きな山が感じられるまで風味を味わうのみだ。さらに、この句の凄みは、伊豆山、蓬萊といった、何とも大らかでよい名を句にとりこんでいないことにあるだろう。(藤原智子)

太陽のとほれる道に返り花『富士』

 冬の日が、まさに沈んだとき、見上げたら返り花が風に震えていたというような意味だろうか。それなら、なぜ「後」ではなく幅広い解釈ができる「道」を選んだのか。
 「太陽の道」と言われれば、一年では黄道であり、一日では日周運動である。どちらにしても、私たちを取り巻く、大きな自然である。一方、返り花は季節に反した、本来あってはならない花である。すなわち自然に反したものである。
 しかし「太陽の道」、その大きな自然は説明図では見ることができるが、実際目にすることはできない。返り花は、自然に反しているが手に取り、見ることができる。
 私たちの世界(この世)は、目に見えるもの見えないもの、自然なものと不自然なもの(人間世界で言えば、条理と不条理)が入り混じって存在して、それらは大きな銀河の中にあるのではないかと考えさせられる句である。さらに言えば、その銀河も、広大無辺の暗黒の中にある。(稲垣雄二)

 平明に思えて、実は不思議な句である。一般的には「返り花」の句はどこか寂しい気配があるが、掲句は明るさを纏っている。なぜであろう。
 太陽は宇宙の真ん中にどっしりとあり、地球はその周りを公転している。すなわち、〈太陽のとほれる道に返り花〉とは、地球が時節外れの返り花を咲かせることができるのは、太陽があるからこそであると言っているのだ。これは作者の世界観にも通じるのではなかろうか。まさしく掲句の眼目は「返り花」ではなく、「太陽」なのである。
 ある物理学者は言う。「いま降ってきている太陽の光は四千年前のもの。」と。四千年前の光で植物も生き、そして人間も生かされているのだ。作者はつくづく感動し、その心の弾みが掲句に昇華されたに違いない。宇宙と触れ合ったかのように。斯くして向日性のある句となった。すっきりとした句姿も句を大きくしている。最初に不思議に思えた謎が解けた。作者の気宇壮大な詩精神である。(谷村和華子)

山はみな浮きつ沈みつ桜かな『富士』

 山々に桜が点在している様を「浮きつ沈みつ」と表したことで、桜を含めた山肌が波打って迫りくるような躍動感に満ちている。中七における「つ」の繰り返しが心地よい調べとなり、山々を連なりとして横に縦に視線を躍らせる動きをなぞる。
 この繰り返しが生む調べと眼差しの軌跡を考えていて、詩経の「桃夭」を思い出した。

  桃之夭夭/灼灼其華/之子于帰/宜其室家
  桃之夭夭/有蕡其実/之子于帰/宜其家室
  桃之夭夭/其葉蓁蓁/之子于帰/宜其家人

 四言詩形態で桃の花・実・葉の瑞々しさを若き花嫁に重ね合わせて詠んでいる。繰り返される「夭夭」は季節を超えて生を讃える。
 掲句の「浮きつ沈みつ」もまた、山ごとの点在の様子だけでなく、その映像に時間的奥行きを与える効果がある。桜を詠みつつ春にとどまらず、季節を超越している。(市川きつね)

 作者の第九句集『富士』のなかの一句である。当時のインタビュー記事にて、作者は、「ごく単純な普通の言葉で世界の不思議さをとらえる」ということを述べている。
 掲句もまた、言葉としては、山と、桜と、「浮きつ沈みつ」という慣用的な表現のみである。それでも凡庸な句とならないのは、その言葉の置き方による。「山はみな」で、まず山々の姿が浮かぶ。次に、その山々が「浮きつ沈みつ」とはどういうことか、一瞬疑問が生まれるが、「桜かな」で、山々を覆う山桜の美しい景色が現れ、一気にその謎が解ける。山桜は、花とともに若葉が同時に開き、また、周囲の木々が一斉に開花するわけではないので、まるで「浮きつ沈みつ」しているような濃淡が、そこに生まれるのだ。
 さらに、切字「かな」の効果もあり、この景色は、作者の目の前ではなく、心のなかに広がっているようにも感じられる。平易な言葉を使っているからこそ、作者の心の働きが、読み手の心にも伝わるのである。(田村史生)

乾坤に投げ入れてある椿かな『富士』

 「投げ入れてある椿」だけでは、壺をはみ出すように活けられた大ぶりの枝を詠んだにすぎないが、「乾坤に」とくれば、途端に大きな景となる。この椿は「投げ入れて」の措辞から崖の岩に根を絡ませ海に突き出している大木であることが想像できる。
 掲句は句集『富士』(2009年)と『吉野』(2014年)に入集。熱海伊豆山にあった旅館・蓬萊の露天風呂から相模湾を見下ろし、自然と一体となり、ぼーっと心を遊ばせていた時、この椿の木が目に留まりこの句を詠んだ。
 乾坤に椿を投げ入れたのは誰か。地球を造り、人類を誕生させたのと同じ力だ。すべては偶然のなせる技。アフリカ大陸から全世界に散らばっていった人類だが、家族が、友人がいようといまいと、結局はひとりで生まれ死んでいく。
 崖から海へ幹を突き出し、風雨と戦う椿の木は、ひとりの人間の存在そのものを具現化して見せている。この句からそこはかとない奥深さと強さを感じるのはそのためである。(齋藤嘉子)

 掲句は、かつて熱海にあった旅館「蓬萊」にかかわる旅の句集『富士』(2009年)の三句目である。劈頭に春の富士〈天上を吹く春風に富士はあり〉、二句目は作者を歓迎するかのように鶯が啼き〈鶯や一つ大きく明らかに〉、続いていよいよ玄関で、投げ入れの椿が出迎えるという趣向だ。
 「投げ入れてある」の「ある」に注視したい。讃えられているのは表面的には椿だが、畏敬の真の対象は、宿の主のもてなし、心遣いであり、それに対する挨拶句ではないだろうか。今日この宿がまず迎えてくれたのは椿ですね、というわけだ。四句目は〈花あまた枝に重たき椿かな〉。庭から、花や蕾のたくさん付いた数本の枝を惜しげもなく切り出してきて投げ入れされた見事な椿だったのだろう。〈湯に落ちて岩を流るる椿かな〉をはじめ、この句集には椿の句が七句もある。宿の丹精や美質を象徴するものが椿だったと解することができる。
 「乾坤に」は一見やや大げさな措辞だが、伊豆山の麓にあり、海を眺められる「蓬萊」そのものを、まさに乾坤の間に位置する宿として讃えたのだろう。〈乾坤をめぐりめぐるや秋の声〉も、字面では、季節が一回りしてまた秋になったの意だが、この宿のそこかしこから、さまざまの秋の声や秋の音が聞こえてくると読むことができる。(長谷川冬虹)

天上を吹く春風に富士はあり『富士』

 作者に対して私は、ずっと恐いイメージを持ってきた。句会などで直接浴びる眼光や発せられる言葉に私は、雨に濡れぶるぶる震えるさながら小鳥のようだ。しかし、句会後その言葉を反芻し深く頷く自分がいる。前置きが長くなったが、句の鑑賞を通してその裡なるものを掘り起こしたい。
 掲句は、句集『富士』(2009年)の巻頭に据えてある。明るく大らかで、読者を展けた世界へと誘い出してくれる。上五「天上を」は、単にそらのうえというより神々の住む領域天界なのではなかろうか。遠くて近い、近くて遠い霊峰「富士」。それは無の世界と化し、もはや作者と一体化しているのだ。
 下五「あり」に充足した思いが伝わる。作者の心の裡には常に心象風景としての「富士」があるのではないだろうか。すっきりと高潔で微妙に左右不対称な日本の美。左右不対称により生まれる余白の涼しさ。読み深めていくと、とてつもなく静謐な句であることに気づいた。(谷村和華子)

 今更申し上げるまでもなく俳句は韻文である。散文とは目的が異なる。散文の目的は正しく意味を伝えることにある。確かな情報の伝達だ。では韻文の目的は何か。それは一言で言えば表現だ。ゴッホがカンバスと絵の具を用いて現実をはるかに超えた向日葵を描いたように、俳句を詠む者は言葉を駆使して意味を超越した何ごとかを表現しようとする。
 掲句はそんな心構えで「富士」を描いている。「天上を吹く春風に富士」がある。日常の散文ではこのような言い方は避ける。それは分かりにくいからだ。しかし作者はそんなことは意に介さない。「富士」がまるで重力から解き放たれたように、地上から切り離された「天上を吹く春風」に存在すると敢えて言い表している。つまりこの表現によって現実を打ち破っているのだ。
 筆者の茅屋にはこの句の短冊が掛けてある。作句や選句の際の戒めの一句となっている。(村松二本)

鶯や一つ大きく明らかに『富士』

 今、はっきりと鶯の囀る声が聞こえた。鶯の姿は、作者には見えていない。しかし、「一つ大きく明らかに」囀る声によって、鶯の姿が作者の心に浮かんだ。「鶯や」の「や」が句を大きく深く切っている。「一つ大きく明らかに」は現実の世界で、「鶯や」の鶯は作者の心の世界だ。
 『松島』に次ぐ旅の句集『富士』所収。『富士』の冒頭におかれているのは、〈天上を吹く春風に富士はあり〉。続く二句目がこの句だ。三句目は、〈乾坤に投げ入れてある椿かな〉。富士を直接詠んでいるのは一句目だけだが、二句目、三句目と富士を囃すようにおかれている。掲句は、鶯を描写した句でありながら、富士を表現した句である。(藤原智子)

 言うまでもなく、掲句の題材は鶯の声である。ほうほうほけきょと大きくて明瞭な鳴き声が聞こえ、その後しばらくは静寂が続く。声の主である鶯の姿はない。
 鶯は古くから日本の詩歌で詠われてきた春の季題である。しかし、よく詠まれる季題であるため佳句を作るのは容易ではない。類句、類想の可能性を避けられないからである。これまでにない句を作ろうとして材料を入れ込むと、季語の持つ詩情を損なったりする。
 そんな迷いもなく、鶯の声を正面からゆったり取り上げたのが掲句である。鶯の声を大きく確りと描写し、言祝ぐことで、読者には良い声が聞こえるだけでなく、鶯の姿さえ見えてきそうだ。
 『折々のうた』選俳句(一)で大岡信は〈木枯の一日吹いて居りにけり〉(岩田涼菟)を「俳句というものがどこまで表現を単純化できるかを示す好例」とした。また、作者の最近の句に〈けさ一つはるかな空に雲の峰〉(鎌倉zoom句会)がある。掲句を含め、どれも余計な措辞を削ぎ落とすことで、季語が持つ詩情をよく発揮させている。(臼杵政治)