芹は春の七草でもあり数少ない日本原産の野菜のひとつ。独特の香りや爽やかな食感が好まれ『日本書記』の歌謡や『万葉集』の和歌にも詠まれている。
箸の先から芹の香がするというのだから、芹を使った料理ではないだろうかと想像する。十七音の言葉の力で、言葉にしなかった眼前の何かを俳句に落とし込んでいる。そのことによって読者は箸の先へと心を遊ばせ、作者が言葉にしなかった何かと出逢うことが出来るのだ。
著書『長谷川櫂 自選五〇〇句』のなかで作者は「俳句は言葉の意味を連ねて説明するより、言葉の風味を醸し出す文学であるらしい」と述べている。掲句はまさにそのことが体現された一句となった。所収は第二句集『天球』。飴山實に師事を仰いだ最初の句集でもある。(髙橋真樹子)
芹は、春の七草のひとつで、その爽やかな香りと柔らかさが特徴である。箸の先から芹の香りがする。ただそれだけの句であるが、問題は、上五「何となく」である。掲句は、作者の第二句集『天球』に掲載されたものであるが、現在、作者から指導を受けている身としては、作者が「何となく」という曖昧な措辞を選ぶのは、意外であり、驚きでもある。
作者は、何故「何となく」と詠んだのか。それをふまえて読み直すと、単に箸の先から芹の香りがするというよりは、どこからか芹の香りがして、それが箸の先であることに気付いたという小さな発見、さらに、いつか誰かと芹を食したことにまで思いを馳せる、作者の心象風景が浮かぶ。
加えて、掲句には、連句の付句のような風合いがある。連句では前句に付きすぎず、余白を残すことが求められる。「芹の香」「箸の先」という具体的な物に、「何となく」という言葉を添えることが、余白を生み出す仕掛けになっているようにも読めるのだ。(田村史生)