かげろふや父に隠るる女の子『天球』

 陽炎のたっている時分に、お父さんに連れられた女の子がお父さんの知り合いに出会い、その女の子は恥ずかしがって父親の後ろに隠れる。掲句の内容はこれだけのことで、父親の知人の目線から捉えた景である。
 作者はかつて句会で、芭蕉の〈むざんやな甲のしたのきりぎりす〉が優れているのは、この句は原爆が投下された広島や長崎においても十分通用する。優れた句は時代、場所を選ばないと語った。
 このことは掲句にも当てはまる。この女の子は実は戦争か病気か原因は不明だが既に亡くなった子供かもしれない。父親はその事実を受け入れかねている。心には常にその娘がいる。そして、時々父親の心から出てきて一緒に散歩したりする。亡くなっているのであくまでもゆらゆらと陽炎のように。季語が「かげろふ」である必然性がここにある。
 さらに、父親の娘が生きていて欲しいと思う気持ちがこの句となった、という解釈を許容するのも切れ字「や」の働きがあってこそだ。(齋藤嘉子)

 第二句集『天球』(1992年)の作品群Iに収録されている。第一句集『古志』刊行の翌年(1986年)、作者は第二子(長女)を得た。この娘さんは、〈桃食べて桃のにほひや女の子〉〈柚子湯よりそのまま父の懐へ〉〈指ふれて母子眠れる花柚かな〉(いずれも第三句集『果実』=1996年=所収)などに登場する。
 『長谷川櫂全句集』の季語別索引では陽炎のもとにこの句を採っている。前後も春の句だから、蜉蝣(秋)ではなく、「陽炎や」と解すべきだろう。師飴山實を悼んだ〈屍いま大陽炎となりゐたり〉(2000年、第五句集『虚空』所収)のように、陽炎は作者が好んで詠んできた題材でもある。取り合わせの句とも解しうるが、はじめて見る陽炎に驚きたじろいで、幼い娘が父に隠れたという一物仕立ての句と解したい。娘は父の背中越しに、おののきながらもなお陽炎を盗み見しているのかも知れない。子どもならではの対象との新鮮な出会いの瞬間が詠まれている。おさなごの貴重なスナップショットだ。(長谷川冬虹)

目を入るるとき痛からん雛の顔『天球』

 お雛様は毎年必ず出して飾らないと泣くのだと祖母は妹と私に話していた。毎年、箱から出して飾るのが愉しみでならなかった。薄い桜紙でひとつずつ丁寧に顔をくるんであるのをそうっとはがす時、雛と目を合わす時、胸がときめく。
 掲句を一読して中七の「痛からん」は雛であろうと思ったが、上五「目を入るるとき」は能動態であるから、「痛からん」は雛であり目を入るる人自身でもあるのだ。
 私事であるが、娘たちが嫁ぐときや孫たちの初節句には雛人形や五月人形を木目込みで作り贈ってきた。桐塑の胴体に彫刻刀で切れ込みを入れる。その切れ込みにあれこれ選んだ縮緬をべらで入れ、着物を着せていく。これが想像以上に難しく時間を要する。そしてお頭を入れ、最後に目を入れ、これで初めて人形に魂が宿る思いがする。まだ人生の苦しみも悲しみも何ひとつ経験していない子の幸せをひたすら祈り、目を入れる。その目に宿るこのゆえしらぬ心なつかしさは何だろう。
 『長谷川櫂 自選五〇〇句』にある自筆年譜でみると、掲句は作者のお嬢さんの桃の節句に飾られたお雛様を見ての感慨であろう。娘の幸せを思う祈りの句ともとれる。(谷村和華子)

 痛覚が備わるはずのない雛でさえ、筆を以て目を描き入れるときには痛いと感じるに違いない。そんな常識にとらわれない発想がこの句の魅力と言える。
 昨年、櫂の作品をまとめて読み返す機会を得た。その際に改めて気付いたのは、この句の作者にも発展途上の時代があったということだ。考えてみれば当たり前のことである。
 大雑把な印象になってしまうが、句集で言えば『古志』『天球』がその時期にあたるのではないだろうか。あるいは『果実』の前半を加えても良いかもしれない。
 例えば、掲句ならば「顔」という措辞にそれが現れている。「雛」で事足りるのではないか。恐らく昨今の櫂ならば「雛の顔」と結ぶことはないだろう。(村松二本)

家中の硝子戸の鳴る椿かな『天球』

 さっきから、家の硝子戸があちこちでカタカタ鳴っている。恐らく風の音だろう。風向きからすると、南側つまり春風が吹いている、もしかすると春一番かもしれない。
 鳴っている硝子戸から小さな庭を眺めると目につくのが、この2、3日、急に咲き出した、赤い椿だ。そのいくつかの花が揺れて、春風と一緒に楽しんでいるように見える。まるで、ボッティチェリの「春」に登場する、風の神ゼフィロスが春風を呼び、椿も窓枠もそれを喜んでいるかのようだ。
 掲句はこんな解釈ができるだろう。もちろん、硝子戸がなぜ、鳴っているのかは句中に明示していない。しかし、椿という季語からも、春風が硝子戸を鳴らしているのは明らかであろう。動作の主体にあえて触れていない点では、芭蕉の遊行柳での句〈田一枚植て立去る柳かな〉と似た構造の句となっている。主体を明示しないことが句に余白を生み、読者の想像の世界を広げる効果を持っている。それは例えば〈春風に硝子戸の鳴る椿かな〉とした場合と比べれば、明らかであろう。(臼杵政治)

 「家中の硝子戸の鳴る」と「椿」の取り合わせの句だ。中七のあと、句は切れる。また、切字「かな」で大きく切れる。これらにより、椿がぽっかりと宙に浮かんでいるようだ。
 掲句からは、加藤楸邨の〈寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃〉の句が思い起される。掲句も楸邨の句も、家の中で、風や雷といった自然現象によって鳴るガラスの音を聴いている。楸邨の句には、結社を立ち上げる決意が表れている。
 掲句はどうか。作者の思いは見えない。しかし、とてもゆかしい。「家中」「硝子戸」という名詞が選ばれ、静かにおかれている。「鳴る」という動詞は、それ自体が柔らかく響いている。そして、軽やかに「椿かな」へと飛んでゆく。言葉が音楽を奏でている。(藤原智子)

灯のいろを踏めば氷や鬼やらひ『天球』

 やらわれて逃げて行く鬼が灯りらしきものを踏むと、それは灯りを反射している氷だった。掲句の基本的な含意はこうだろう。
 『長谷川櫂全句集』(2008年)の季題別索引を見ると、第二句集『天球』(1992年)は氷の句を17句も収録している。掲句は追儺の句であり、季題「氷」には含まれていないが、この句の不思議な魅力は氷にこそある。新潟時代を含む第一句集『古志』(1985年)は雪の句が目立つが、氷の句が多いことは『天球』の大きな特色だ。氷のすきとおる冷たさは、作者の美学の一面でもある。
 雪も氷も、天空とこの地上とを媒介する。やらわれた鬼は、氷を踏んでどこへ向かったのだろうか。その行き先は天球の彼方と解したい。
 『天球』初版本は〈青空の映れる水に針魚みゆ〉で始まり(合本版と全句集版では二句目に置かれている)、そして掲句で終わる。評者には、青空を映している水中を覗くと針魚が見えたという、《天球から現在地へ》という句と、《現在地から天球へ》と向かう「鬼やらひ」の句とは呼応しているように思われてならない。こう理解することで、掲句が句集の終尾に置かれている必然性が感得できよう。
 作者は合本『古志・天球』(1995年)のあとがきで、天球を「地上に立つ人から見た無限に広がる天空を指す」と自解している。第二句集で獲得した、現在地から見える無限の天空という視座は、作者のその後の句作りの基本軸の一つと言える。タイトルに着目しても、第五句集の『虚空』(2002年)へ、さらには『太陽の門』(2021年)へと続く。(長谷川冬虹)

 灯りのついた家々から「鬼は外、福は内」の声が聞こえる。氷った水たまりに家の灯りが映る。その氷をやらわれた鬼が踏んでしまう。しかし、この句の鬼は面を付けた鬼役の人ではない。力ある者から疎外された何者かを象徴している。
 鬼やらいは、古代中国・周の時代に宮中の悪鬼、悪疫を払った「方相氏(ほうそうし)」に始まるが、いつの間にか方相氏はやらわれる側の鬼となる。季語「鬼やらひ」はこの方相氏のあわれさを内包している。
 また、一茶の〈朧々ふめば水也まよひ道〉(『西国紀行』)が掲句の通奏低音となっているのではないか。一茶は四国行脚の途中、亡き師の友人を訪ねたところ、その人の死を知らされ、その夜の宿も断られ、この句を詠む。この時の途方にくれた一茶の気持ち、哀れさが掲句の鬼と重なる。
 句集『天球』は春夏秋冬を三巡させており、当然、最後は冬の句群で終わる。鬼やらいは冬の最後の日に当たるので時系列では当然だが、あわれさを纏うこの句がなぜ句集の末尾なのか私には分からない。(齋藤嘉子)

あをあをと氷の中に影法師『天球』

 掲句に難しい言葉は一つもない。しかし、評者からみると謎が尽きない。まず、影法師は誰か。第三者ではなく作者自身だと考えたい。影法師というのは物理的な影だけでなく、心の有りようを含めて全人格を象徴しているとも取れる。
 次に普通は影が映っているのは氷の上や氷の面であるのに、「氷の中」としているのはなぜか。氷の上の影なら作者と同じように動き、いなくなれば消えてしまう。しかし、中に入っていれば氷に閉じ込められていることになる。作者がいなくなっても影は残っているのかも知れない。
 三つ目に上五の「あをあをと」という修辞の意図は何か。氷は白と形容されることが多い。敢えて「あを」としているのは、氷が水のように透き通っていることを表しているのか。否、「あをあをと」しているのは氷より影法師であろう。冬の寒さの中、自分の周囲には日が当たり影ができている、その様子を「あをあをと」としているのか。
 飴山實に師事し、掲句を収めた『天球』を刊行するまでの作者は、句作の有りようを探っていたともいう。影法師がその頃の作者の人格を象徴しているとすれば、氷に閉塞されている自分であっても、日差しの中に、まだ遠いけれども、いずれやってきそうな春を感じている、その気持ちこそが「あをあをと」しているとも言える。平易な言葉からできている句だからこそ、読者には大きな余白が残されている。(臼杵政治)

 「影法師」は、人の影のこと。池か湖に張った氷であろうか、そこに映る人の影が「あをあをと」していたのだ。黒いはずの影が作者には「あをあをと」して見えた。それは、真冬でありながら、太陽の光に春の兆しを感じたからなのかもしれない。その光のもたらす影を「あをあをと」と詠んだのかもしれない。
 「あをあをと」はまた、人生の春の季節を生きる若い人の、この上ない「あをさ」でもあるだろう。
 「氷にうつる」でもなく、「氷の中の」でもなく、「氷の中に」と詠むことによって、影法師が生き生きと動き、命を持っているかのように感じられる。氷の向こうに別の世界が広がっているかのようだ。
 この「影法師」は、言うまでもなく30代前半の作者の自画像だ。(藤原智子)

釘箱の釘ことごとく寒茜『天球』

 「寒茜」とは冬の夕焼けのこと。束の間ながら寒中ゆえにその際やかな色彩は印象深い。釘という素っ気ない物質が、一つの箱に入っている。長いのも短いのも混じって乱雑に投げ入れてあるのであろう。この句、経年のために赤錆びた釘の一山が、まるで寒茜のようだという見立ての句として解することも出来る一方、真新しい艶やかな釘に夕陽が射し込んでいると読むこともできる。どちらにしても、冷え冷えとした釘の質感に茜色を点したことにより詩的な照応を生み出している。
 重要なのは、「ことごとく」である。「釘箱」の全体から「釘」の細部へと読み手の視線を導き、「ことごとく」とリズムよく唱えさせている間に、いつのまにか主観に転じられ、作者の眼を透して、どの釘も余さず、一切が美しく茜色に荘厳される。「見るところ花にあらずといふことなし」(『笈の小文』)と言い切った芭蕉と同様の心眼で、作者は釘を茜色に染め上げる。(渡辺竜樹)

 釘箱を開けるとなかの釘がことごとく赤く錆びついていたのだろう。釘箱の外に広がる世界も、夕焼けで同様に真っ赤に染まっている。釘の赤がさらにあざやかにみえてくる。また掲句を音にしてとらえなおすと、「KUGIBAKO NO KUGI KOTOGOTOKU KAN AKANE」となる。K音とG音が釘箱を釘が転がる音のようにも聞こえてくる。視覚と聴覚の際立つ一句といっていいだろう。
 さらに、この句を読んで思い出すのは、尾崎放哉の〈釘箱の釘がみんな曲つて居る〉であり、飴山實の〈釘箱から夕がほの種出してくる〉である。前者は無季、後者は春の句(夕顔の種蒔く)になるが、併せて読むと、句の世界が広がってみえてくる。放哉の曲がった釘は凍えているようにも、實の夕顔の種には釘の赤錆がついているようにも思えてくる。
 もちろん俳句は一句独立したもので、完成していなければならない。掲句ももちろん完成した一句である。しかし俳句は一句で「完結」するものだろうか。そんな問いが浮かんでくる。完結してしまったら、俳句はつまらない。ときとして独立した一句一句が、時空を超えた対話のように響き合うことがあるのだ。(関根千方)

畳まれてひたと吸ひつく屛風かな『天球』

 櫂俳句に屛風はしばしば詠まれているが、中でも人口に膾炙した句だろう。副詞「ひたと」は「直と・頓と」と書き、「へだてなく・ぴったりと」「ひたすら・いちずに」「にわかに」の意。なるほど、表面が密着したというだけでなく、畳むという動作の最後の一瞬、屛風自らがにわかにすっと吸いつき合ったかのようだというのだ。「ひたと」の語感は「ひたひた」にも近く、この世のものならぬ何かが屛風に宿っている気さえしてくる。
 しっかりした屛風とは、杉材の骨組みの上に和紙を何枚も貼り重ね、紙の厚さや糊の付け方を微調整することで反り返りや歪みを防いでいるそうだ。春夏秋冬、気温や湿度が変わっても表面はピンと張っていなければならない。特に厳冬の緊張感は想像するだに物凄い。
 ここに、櫂俳句の美学が垣間見える。美しい俳句は、目に見えない部分の糊さえ寸分も疎かにされていてはならないのだ。「ひたと吸ひつく屛風」の姿は、俳句の姿でもある。(イーブン美奈子)

 この屛風は畳まれるのだから国宝などではなく、普段和室で使っているものだろう。しかし一読では「ひたと吸ひつく」という表現の理解は難しい。
 風よけのために使うのが冬の間だけなので屛風は冬の季語だ。冬の荒涼とした心情をなぐさめるためか、描かれている題材も広々とした風景が多いように思う。風よけとして使われている屛風の風景に作者はそこに吹く風も見ていただろうか。
 季節がめぐりいざ屛風を畳む段になる。両手で屛風の縁を持ちそっと重ね合わせる。空気の抵抗もあってふわっとした感触がある。空気がゆっくりと逃げ出すように屛風は畳まれる。屛風の風景に見えていた風が一瞬吹いたように感じたかもしれない。そしてそれっきり風はやみ屛風は静かになる。もともとそうであったかのように。
 こう想像すると、一見奇異に思えたこの副詞と動詞は畳まれた屛風の表現方法としてこれ以上ぴったりしたものはないように思えてくる。「ひたと吸ひつく」はこころで感じた感覚だが、手で直に感じた実際の感覚がベースになっているからこそ力を持つ。(三玉一郎)