春の坂登りて何もなかりけり『古志』

 秋ではだめで、春の坂でないといけない。もしも「なかりけり」ということを秋に詠んだら、〈見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ〉(藤原定家『新古今和歌集』秋上・363)の縮小になってしまう。では、なぜ春なら良いのか。一つの理由として、「無」がネガティブなものでなくポジティブなものに変わるから、という点を挙げたい。
 掲句の「無」は、寂しいもの、残念なものには全然見えない。逆に、めでたいものとして言祝いでいるようだ。「無事」という日本語があるが、事が無いとは、災害や大過が無く平穏で慶ばしいことである。
 この解釈は俳句でなければ成り立たない。仮に、現代語訳風に「春の坂を登って、何もなかったことよ」と散文にしてしまうと、絶景を期待して登ってみたものの何もなかった、という、つまらないただごとになる。俳句の心は、俳句という詩形があってこそ、そして、季語があってこそ。俳句は、俳句でなければならないことを詠む。これが基本だ。散文とか外国語に訳して何も変わらないようなら、最初から散文とか外国語で書けばいい。『古志』は作者の第一句集だが、既にこのことが強く意識されていたと思わされる一句である。(イーブン美奈子)

 「春の〇〇」という季語がある。例えば「春の空」のようにそのものが歳時記に載っているものがある。みんなが共通して持つ「春の空」の印象が土台になる。一方、詠みたい対象に「春の」とつける場合もある。「春の坂」もこの例。この場合みんなが共通して持つ「春の坂」の印象があるとは言い難い。
 作者はこの「春の坂」を何か意味のあるものとして考えたのだ。たしかに「春の坂」には他の季節にはない感じはある。卒業や入学がある春は次のステップに向けて歩き出す季節であり、その坂の上には何かがあるはずだと思わせてくれる。そんな期待のもと「春の坂」を登り始めた作者だったが、その結果は拍子抜けと言えるものだった。作者が「春の坂」の上にあると思っていたものは一体何だったのか。
 この句は作者にとって初めての句集である『古志』のⅠにある。若い作者は俳句を通して追求すべきものが「春の坂」の上にあるはずだと思ったのではないか。それを見つけられなかったのだからがっかりもしただろう。しかし逆に「春の坂」の上にもし思った通りのものがあったならば、はたして作者は今日まで俳句を続けてきただろうか。この時、作者は俳句とはすなわちこの「春の坂」を登ることと同じだと気付いたに違いない。このことが作者にとって何よりの収穫だった。だからこの一句は生まれたのだ。(三玉一郎)

花びらやいまはの息のあるごとし『古志』

 「いまはの息」と言えば、臨終、死に際のかすかな息のこと。「花びらや」の花びらはどのような状態なのだろうか。最初に読んだ時は、散ったばかりの花びらだと思った。散ったばかりの花びらは瑞々しく美しい。ただ、生物的には枝を離れた時点で「死」を迎えている。「いまはの息のあるごとし」と「ごとし」で表現したのは、そのためであろう、と。
 読み返していると、「花びらや」の花びらは、まだ枝にある花のことではないかと思うようになった。桜の花の儚さは、万人の感じているところであろう。咲いたと思ったら、もう散る気配だ。この散る気配の一瞬を「いまはの息のあるごとし」と表現したのではないだろうか。「ごとし」は、擬人化を感じさせる。「ごとし」を使わず、「花びらにいまはの息のありにけり」と一気に言ってもいいのではないかと思い、何度も口遊んだ。ただ、それだとメリハリがなく流れてしまうなと感じた。
 「ごとし」を使うことで、「花びらや」に焦点が集まる。どのような状態であろうと「花びら」の本質がこの句の命だ。(木下洋子)

 掲句は第一句集『古志』(1985年)の最初期の作品群Iに収録されている。II以降は読売新聞新潟支局勤務時代の句だから、Iの掲句は学生時代の作だろうか。
 散りかけの桜の美しさを、「いまはの息のあるごとし」と鋭く形容する。花びらと「いまはの息」との間には大きな飛躍がある。切れ字の「や」がよく効き、「いまはの息」という表現によって、落花寸前の花びらのぎりぎりの緊張感・切迫感が示されている。西行の歌〈ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ〉を踏まえて、作者の死生の美学が示されてもいる。「いまはの息」という珍しい形容を選びとったのは、少年時代か青年時代に、近親者の死を身近に経験したのだろうか。
 熊本日日新聞の連載「故郷の肖像」のプロローグ、同郷の俳人・正木ゆう子さんとの往復書簡の第一信(2024年1月4日付け)で、〈子どものころ母方の祖父さんがある夜「この子は体の弱かけん、長う生きんばい」と母を慰めるのを聞いてしまってから、ずっと二十歳までに死ぬだろうと思っていた〉と作者は記している。早死への怖れのゆえに、死への独特の親近感、近しさの知覚が幼い頃から作者にはあったのかも知れない。(長谷川冬虹)

春の水皺苦茶にして渉りけり『古志』    

 「渉る」は、さんずいに歩く、文字通り、水の中を歩くことを言う。水を渉る際に、水面に波紋が生まれた。ただそのことだけが詠まれている。
 まず、斬新な表現。通常、「皺苦茶」になるのは、紙や布のような固体であって液体ではない。水面の波紋を「皺苦茶」と見立て、かつ切字「けり」を使って断定することで、新たな発見を示している。
 次に、大胆な省略。水を渉る主体者は誰(あるいは、何)なのか、どこで、何のために渉っているのか。作者は、その主体者なのか、目撃者なのか。一切の説明は省かれ、余計な意味が削がれている。そのため、主体者は、水を「皺苦茶」にするため、水と戯れるためだけに、歩いているかのようでもある。
 最後に、何故「春の水」なのか。他の季節でも、句は成り立つのか。水が「皺苦茶」になるのは一瞬で、すぐに元に戻る。水のやわらかさや、まるで生きているかのような動的なイメージは、やはり、命の息吹の季節である春でなければならないであろう。(田村史生)

 『古志』は作者が二十代に詠んだ句をまとめた句集。その大半は新聞記者として赴任した新潟、とくに小千谷で詠まれた句というから、掲句は小千谷のどこか野原を流れる小川だろう。雪国の厳しい冬には山の上にたくさんの雪が蓄えられ、春の温かさとともに水となって地や川に解放される。雪解けの清冽な水が流れる春の川は心が弾む。
 その春の小川を作者は一気に渉った。水量と勢いを増した川の水は進むごとに足にぶつかり、流れはどんどん複雑に変化してゆく。「皺苦茶」とはなんと愉快で若々しい表現だろう。渉りきったことで川の水との勝負に打ち勝ったような、そんな高揚感も伝わってくる。
 郷里の熊本を離れ、大学生活を過ごした東京を離れ、雪国新潟で迎えた春は、冬を越した作者に自信を授けた。雪に阻まれ止まっていた物事が一斉に動き出すような期待も抱いたに違いない。この十七音からは空の色や野原の様子、風の気配や陽射しの強さまでもが伝わり、春を迎えた悦びに溢れた一句となった。(髙橋真樹子)

口ぢゆうを金粉にして落椿『古志』

 落椿の蕊のなかから、蜜をむさぼったものの顔があらわれる。その口は金色の花粉にまみれている。蜂か虻のたぐいであろうか。
 椿は虫や鳥を媒介して受粉を行う。椿のような植物の生命において、おそらく受粉(送粉)は、最も重要な営みであろう。椿は、その花粉の媒介者をまねきよせるために、多量の蜜を分泌して、甘い匂いを漂わせる。それだけなく、椿のあざやかな花弁の色もまた、この媒介者に容易に気づかれるためだとも言われる。
 この句の椿は、蜜を吸われているさなかに落ちたのかもしれない。虫は椿の花もろとも地面に落ち、驚いて顔を出したのだ。まるで一心不乱にご馳走をたいらげたあとのような、至福の表情を浮かべているかのようである。まさに待ちにまった春のよろこびそのものであろう。(関根千方)

 なんと可愛い俳句だろう。「口ぢゆうを金粉にして」という措辞からは小さい子がぼた餅を頬張ってそのおちょぼ口がきな粉まみれになった様子を想像してしまう。
 しかし、実際には花弁が花粉まみれになることはないし、作者は「花粉」ではなく「金粉」と詠んでいる。作者は『長谷川櫂 自選五〇〇句』で「どの言葉も、ものの姿を写す描写と心の動きを表す表現という二つの働きをも」ち、その二つが調和してこそ詩が生まれると述べている。そして、掲句は「表現」に比重を置き、落椿を見たときの心の動き、印象、残像を詠んでいるのだ。花弁中央の雄しべの金色が作者の頭の中ではクローズアップされ、まるで金屛風のような輝きを放つ。落椿の雄しべが作り出す空気感に作者の心が揺らぎ、そこから言葉が生まれ掲句となった。
 作者は落椿そのものを詠もうとしたのでなく、肉厚の赤い花弁と王冠のような雄しべの醸し出す緊迫した空気感を詠んだのだ。(齋藤嘉子)

葉桜や水揺れてゐる洗面器『古志』

 満開の桜の花があっという間に散ってしまうとその儚さに宴の後のような虚しさを感じるが、それも一瞬のこと。瑞々しい若葉が出揃い、風にそよいでいるのが目に入るようになると、命の輝きを感じ、満開の花もいいが、この葉桜の瑞々しさ、美しさは格別であると思うようになる。
 掲句は上五の「葉桜や」で立夏を過ぎたころの輝く緑の世界が心にうかぶ。続く中七下五の「水揺れてゐる洗面器」で視点が外界の葉桜から目の前に移る。宿坊などで洗面をする朝の風景だろうか。蛇口から洗面器に水を注いでいるのか、掬った水の様子なのか。「揺れてゐる」には躍動感がある。静止した水に感じる沈思黙考ではない、心の揺れにも通じる。
 『古志』で掲句の四句前にある〈春の水とは濡れてゐるみづのこと〉の、春の水の本質を大きく捉えた詠みぶりとは対照的に、「水揺れてゐる洗面器」という限定した繊細な世界を詠んでいる。何気ないこの繊細さが読者の記憶を喚起し、様々な物語が生まれてくる。(木下洋子)

 目を閉じて想像してみる。時は初夏の朝、ここは庭に面した共同洗面場がある賄い付き下宿屋。硝子戸越しに配膳の気配がする。皿の触れ合う音に健康な空腹を感じる。でもまだ身体のどこかに夜の屈託が残っている。
 袖口をまくり慎重に蛇口を捻る。水は柔らかな透明の一筋となって洗面器を満たす。洗面器は清潔に洗いあげられた金盥でなければいけない。洗面器を満たす水が一瞬揺れているように思えた。
 すっと顔を上げてみる。いつの間にか桜の花はすっかり散っている。葉桜の緑に朝日がまぶしい。晩春の気配が少し残っている夏の始まりの朝を描いた小品のスケッチ。
 『古志』は作者31歳の第一句集。社会人としての生活に少し慣れだしたころだろうか。何者かになるという祈りと、何者にもなれないといういらだちの間で揺れ動いている。洗面器に揺れている水は、すがすがしい初夏の水でもあり、作者の心の揺らぎでもある。(喜田りえ子)

花過ぎの朝のみづうみ見に行かん『古志』

 一見、只事であるが、それを免れているのは、重なる「の」の働きであろう。これが「花過ぎに」や「花過ぎの朝に」であれば、句にならない。「の」を重ねることで、「花過ぎの朝のみづうみ」は、限定的な、唯一無二のみづうみという印象を纏うこととなった。
 掲句は、第一句集『古志』の冒頭、一連の春の句に並ぶ、作者二十代の頃の句である。花過ぎの朝とは、まさに人生の春から初夏へ、青年期の終わりを象徴する時期であり、「花過ぎの朝のみづうみ」とは、一生に一度、その頃にのみ出会えるみづうみなのである。
 その意味で、若き日の作者は、この句を明るく詠みながらも、もう二度と出会えないことを予感しているのではないか。その予感どおり、後から振り返れば、「花過ぎの朝のみづうみ」は、最早実在せず、ただ作者の心の中にある追憶に過ぎない。下五「見に行かん」が、心の中にみづうみを探す、後の作者の姿を表すようでもあり、句に広がりを与えている。(田村史生)

 作者は湖を見に行こうとしているが、理由は明らかではない。読み手に分かるのは、その時期が「花過ぎ」かつ「朝」であることだけだ。しかし、読み手の想像力を刺激するに十分だ。
 静まった水面に浮かぶ花びら。鳴き交わす鳥の声。澄み切った朝の空気。水面に反射する日の光はきらきらとしてやわらかい。きっと絵画のような美しい風景が広がっているのだろう。作者が見に行かんとしてまだ見ぬ湖について、読み手は永遠に想像を巡らせることができる。
 仮に、下五が「見に行けり」だった場合、それはただの報告の句になってしまい、読み手は湖について想像を膨らませる自由がなくなってしまう。「見に行かん」と未来の句にしたことで、読み手を句の世界に誘うことに成功した。
 「花過ぎの」とわざわざ言うからには、作者は花時の湖をすでに見ているか、どのようなものか知っている。花時の真昼や、花篝の出る夜の喧騒を避けた「花過ぎの朝」だからこその静かな美を味わえるのだ。句に描かれる風景だけでなく、その選択をした作者の人柄にも魅力を感じる。(市川きつね)

春の月大輪にして一重なる『古志』

 櫂三十一歳の第一句集『古志』の四番目に置かれた句である。ここには十代、二十代の句を纏めている。花を修辞する「大輪」「一重」を使い、春の満月を称えている句だ。
 「一重なる」と言い切っていることから、朧月ではなく、早春のくっきりとした月だろう。さらに「なり」では単なる描写だが、「なる」で止めることにより、春の月を柔らかく自分の心に呼びこもうとしている。心に大志を抱き月と対峙している青年の櫂が目に浮かぶ。明日は故郷を離れ東京へ旅立つのかもしれない。
 中村汀女の〈外にも出よ触るるばかりに春の月〉は同じ春の月を詠んでいるが趣きが違う。汀女は結婚後十年間俳句から遠ざかった後、俳句を再開した時この句を詠んだ。他の人より先に句会を辞した汀女が外へ出て、月の見事さに思わず句友達に呼びかけた時の句だ。
 櫂の句は人を寄せ付けない厳しさが、汀女には親しい人達と共にいる喜びがある。
 俳句には自ずと作者の背景が入り込んでくる。(齋藤嘉子)

 作者の第一句集『古志』(1985年)の四句目に収録されている。若々しく、みずみずしい。大輪の花のような華やぎがある。やや朧げではあるが、一重だと言い切る決然とした潔さ。俳人長谷川櫂の出発を告げているような句である。登場するのは、春の月だけという一物仕立て。技巧に倚らず、奇を衒うこともない、直截で素直な発見の句だが、春の月ならではの情感を的確に捉えている。
 後年60歳台半ばに〈さまざまの月みてきしがけふの月〉(『太陽の門』所収) と詠むことになるが、作者が詠んだ月の句の中でも原点に位置する、格別の月が掲句と言える。〈きさらぎの望月のころ實の忌〉〈春の月大阪のこと京のこと〉(『虚空』所収)は、ともに作者46歳の折に、亡くなったばかりの師飴山實を追悼した句である。月にはおのずと時間の経過と物語性がある。
 初期の掲句もまた、その後の月をめぐる作者の句のコンテキストの中に置き直してみると、俳人としての生涯を予告するような句だったことに、あらためて気づかされる。(長谷川冬虹)

春の水とは濡れてゐるみづのこと『古志』

 この句は難しい。一つ一つの言葉は、シンプルである。また、取り合わせではなく、一物仕立ての句であり、「春の水」=「濡れてゐるみづ」ということもすっとわかる。
 しかし、この句に大きな切れがあることは、すぐにはわからない。そのために難しい。切れ字はないが、「春の水とは」のあとで大きく深く切れている。つまり、「とは」を境に、現実の世界から心の世界へ大きく飛んでいる。
 「春の水」は現実のものだが、「濡れてゐるみづ」は現実の水を写しとったものではなく、春の水の本質をつかんだものである。それが大きな間を生んでいる。一句の中にある大きな間で、私たち読者は自由に春の光を愛で、春の水を掬うことができる。(藤原智子)

 不思議な句である。単に「AとはBである」といえば散文的な説明になるのが普通だ。しかし、掲句には深い詩情がある。それは、「みづ」を修飾する中七の「とは濡れてゐる」という措辞による。
 普通は物を濡らす主体が水、濡(らさ)れている客体が地面や岩、草花などである。にもかかわらず、水が濡れていると主客を転じて書き起こすことで、はっと考えさせる効果が生まれている。
 では、なぜ水が濡れているのか。春の水、という修辞が鍵であるのは間違いない。冬の水のように凍ることも、夏の水のようにすぐ乾くこともなく、自在に広がる春の水ならば、自分で自分を濡らすこともできると言うことだろうか。そうであればこの自在な水、「濡れてゐるみづ」こそが春を象徴している。
 下五の「みづ」は平仮名表記になっており、「水」だけでなく、若々しく、生き生きしているという意味を持つ「瑞」にも通じる。水だけに焦点を絞った挑戦的な言明によって、読者は若々しい春の景へ自由な想像を巡らせることができる。(臼杵政治)