蟻地獄均されてまた新しく『初雁』

 作者には珍しい蟻地獄の句。ウスバカゲロウの幼虫がつくる蟻地獄は、砂地にすり鉢のようなくぼみを作って、迷い落ちてきた動物をくぼみの中心部で捕食するのだという。掲句はこのくぼみをいったん誰かが均したあと、蟻地獄がまた新たにくぼみを作り出しているところを詠んだ句であろう。
 灼熱の砂地でひっそりと繰り返される蟻地獄の営みは、戦を起こし、戦死者を生みださずにはおれない、あるいは他者を貶めて悦楽的な気分にひたりがちな人間の業を想起させる。実際、作者は後年さらに直截に〈深閑と心の奥の蟻地獄〉(『沖縄』所収)と詠んでいる。
 人は誰しも、心の奥底に、攻撃や破壊、権力欲や支配欲などの暗い衝動を秘めていよう。人間自体がまさに蟻地獄的な存在なのだ。捕食される獲物だけでなく、蟻地獄自体が永遠に蟻地獄的な状況から脱出できないのだ。その結果、〈夏草やかつて人間たりし土〉(『沖縄』所収)のような荒廃した状況が現出する。(長谷川冬虹) 

 蟻地獄とはウスバカゲロウの幼虫で、乾いた砂の中にすり鉢状の穴を掘り、滑り落ちた蟻の体液を吸い、その後その死骸を穴の外に放り出す小動物だ。
 加藤楸邨に〈蟻殺すしんかんと青き天の下〉(『颱風眼』所収)がある。楸邨が蟻と対峙している時間と、掲句の作者が蟻地獄に向き合っている時間は、同質である。楸邨も作者もDNAに従って何の感情も持たず、黙々と活動する昆虫を凝視し、殺したり穴を均したりと理不尽なことをする。
 楸邨も作者もある時間、無心に小動物達を眺め、いつしか昆虫も人間も同じ哀れな生き物だと感じる。殺されれば文句のつけようもないが、均された蟻地獄は、何が起こっているのか認識すらせず同じ動作を繰り返す。ただし、宇宙から地球を眺めると、戦っては陣地を広げようとする人間と昆虫に違いはない。
 ひとしきりこんなふうに、昆虫と人間の哀れさに思いを馳せ、作者は立ち上がり去って行く。勿論、もう一度穴を均して。(齋藤嘉子)

はかなしと聞き入る祇園囃子かな『初雁』

 「はかなし」は、あっけないということ。
 「こんちきちん」の祇園囃子は、鉦方、笛方、太鼓方からなる。7月初め、囃子方の稽古「二階囃子」が始まり、7月13日の山建、曳き初めのあと、宵囃子の舞台が整えられる。「この十三日の夜、そろいの浴衣に身をつつみ、全員うち揃って祇園囃子が始まった」(『祇園会』中村汀、平成17年)。
 16日の宵山にかけ、京都の夜は賑わう。「幔幕に飾られた町家、路上にひしめく露店。駒形提灯が鉾の形を浮かびあがらせ、祇園囃子が流れる」(同)。
 17日の山鉾巡行は、朝9時に始まる。「お旅所までは囃子もいわゆる『こんちきちん』のイメージと違って、荘重な、きわめてゆったりしたテンポの曲(後略)」(同)。「烏丸御池を過ぎると山鉾はそれぞれの町家に帰っていく。(中略)次第に囃子のテンポは早くなり、町家の前に来たところで最高潮になる。興奮のうちに囃子が終わると、今年の巡行は終了する」(同)。
 「はかなし」は、祭を惜しむ心。(藤原智子)

 季語は祇園囃子。7月に京都で行われる祇園祭の期間、約1か月演奏される鉦・太鼓・笛の演奏である。
 結社古志では祇園祭のハイライトである7月17日の山鉾巡行に合わせて、句会を開催している。掲句も2002年の祇園祭の際に作られた。
 句集『初雁』には2002年の祇園祭を題材に11句が掲載されており、その最初が〈炎天へ長刀鉾は揺らぎ出づ〉である。山鉾巡行の口火を切るのが長刀鉾ということなので、まさに山鉾巡行への期待と興奮を垣間見せてくれる。それに続く9句も鉾を詠んでおり、11句の最後に置かれた掲句になって初めて鉾以外が題材になっている。
 30余りの雄大で美しい山鉾が通り過ぎ、巡行が終わりに近づく頃、ずっと聞き続けてきた祇園囃子に心を寄せ、ああこの太鼓や鉦も鳴り終わるのかと淋しさを感じているのだろうか。「はかなし」という措辞の背後には、ハレからケに戻る時に感じられる、虚しさや頼りなさがあるような気がする。題材は全く異なるが〈春雪三日祭の如く過ぎにけり〉(波郷、『酒中花』所収)にも通じるような淋しさがある一句だ。(臼杵政治)

かたくなに廻らぬ鉾を廻しけり『初雁』

 かたくなに廻らない鉾を何としても廻さねばという鉾町の人の使命と誇りを作者は透かさず感じ取っている。掲句の次に〈長刀鉾扇の風に廻りけり〉、その次に〈鉾町に生れて鉾の奴かな〉と続く。鉾は鉾町の人にとって神鏡であろう。何ひとつ見逃さない視線。心を逸らさず何でも俳句にしてしまう俳人の心と姿がみえる。
 作者の吉野山の桜や祇園会に対する枯れることのない思いは何であろう。いずれもこの世の無常そのものである。毎年、吉野山や祇園会に足を運び、虚と実の世界を往き来するような世界に身を置き、句にする。無意味かと思える程の時間の反復の虚無。その虚無の中にとどまり、そこから歴史と生を身体で感じ取り句にする。
 作者が少年時代に感じていた無常観、それが何ら変わらないという答え合わせなのではなかろうか。(谷村和華子)

 京都祇園祭のハイライトは、巡行の辻廻しである。鉾の向きを90度変える勇壮な行為で、拍手喝さいである。テレビでは、最後の場面だけを放映することが多いので、美しく1回だけでぐるりと鉾を回していると思っている人も多いと思う。しかし、2回、3回と曳いてやっとこさ進行方向へ鉾を向けることができる。このことを知っていると、この句の面白さが実感できる。
 そして、「かたくなに」がどのことばに係っているか考えなくてはならない。「かたくなに」が「廻らぬ鉾」に係るとすると、鉾が擬人化され、人間なんかに動かされてたまるかと踏ん張っている巨人が見える面白さがある。「廻しけり」に係るとすると、鉾を何とかして動かそうとして、あれこれ手を尽くし、右往左往している人間の必死の中の滑稽さが見えてくる。
 「かたくなに」が、「廻らぬ鉾」と「廻しけり」の両方に係ると考えたら…。読者の鑑賞力を窺っている恐ろしい句である。(稲垣雄二)

長刀鉾からくれなゐのただならね『初雁』

 正直祇園会は苦手である。蒸し暑い京都の街なかで、人にもまれ朝から立ちんぼで鉾を待つのは、苦痛以外何者でもない。所詮よその町の祭りじゃないかというやっかみもある。しかし都大路に長刀鉾が現れると、ああ来てよかったと心底思うから不思議だ。まさしく「からくれなゐのただならね」なのだ。
 長刀鉾は、祇園会のハイライト山鉾巡行の先頭をゆく「くじ取らず」の鉾であり、鉾に乗る生稚児が注連縄を切って巡行が始まる。「からくれなゐ」とは、鉾が纏う緋色のことか。いや、ぐらっと天地をゆるがせ悠然と近づいてくる長刀鉾そのものだ。長刀鉾は祇園会の象徴でもある。だから祭りもまた「からくれなゐのただならね」なのだ。句集『初雁』にはこの句を含め祇園会の句が11句並ぶ。
 山鉾巡行は半日だが、京の町衆はそれこそ一年かけて祇園会の準備をする。災害や戦乱等の危機に見舞われても、町衆の心意気が千年以上続く祭りを支えてきた。巡行に至るまでの数限りない行事は、全て町衆に支えられている。 
 祇園会で俳句を詠むとは、物見遊山の報告ではない。町衆が支えてきた祭りを俳句で称えることだ。長谷川櫂は毎年祇園会に足を運び句を詠む。祭りを称え俳句で町衆の一人になるのだ。(きだりえこ)

 祇園祭の数多い山鉾のなかで、生稚児が乗る鉾は長刀鉾のみである。7月17日、斎竹に張られた注連縄が稚児によって切られると、1.13メートルの長さの長刀が鉾頭についた長刀鉾は、先頭を巡行しながら神の領域に入っていく。長刀は疫病をはらうものと言われており、長刀鉾は「くじとらず」とされ、必ず巡行の先頭となり、祇園祭を代表する鉾となっている。
 鉾を飾る前懸はペルシャ花文様絨毯、胴懸にはモンゴルを含む中国近辺で製織された玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯など、16世紀の希少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元新調品となり、見送の雲龍波濤文様綴織、下水引の五彩雲麒麟図刺繍も復元した新調品を使用している。どれも鮮やかな紅が目を引く。
 「くれなゐ」とは中国の呉から伝わった「呉藍(くれのあゐ)」と呼ばれていたが、だんだんと言葉が変わり「紅(くれなゐ)」と言われるようになった。外国から伝わるものはどれも高価であこがれの的であり、とくに紅花は、黄金に匹敵するほど高価で貴重なものだったがゆえに、平安時代には、高級な船来品ということを強調するため「韓紅」「唐紅」と言うようになった。この祭から受ける舶来の美に心動かされた五木寛之は、小説『燃える秋』で、京都の祇園祭を舞台に設定し、ペルシャ絨毯の本場イランへと旅立つ女性を主人公にして恋愛模様を描いた。
 この句、その「からくれなゐ」がよほど目に鮮やかだったのであろう。絢爛たる巡行の様子を色に焦点をあてて描き、この祭の華やかさを際立たせている。(渡辺竜樹)

月光に入つて眠る子どもかな『初雁』

 掲句を読んですぐ思い出されるのは、櫂の師である飴山實の〈妻いねて壁も柱も月の中〉(『辛酉小雪』)である。また、掲句入集の句集『初雁』には〈浮寝鳥よべは大きな月の中〉がある。
 三句とも月の下で安らかに眠る人や鳥を詠っている点は共通している。
 「妻いねて」には妻への夫の温かな眼差しと妻が寝入ってからの時間の経過が感じられる。さらに妻から壁、柱へと読者の視点を広げながらも妻の眠る寝室を切り取った静的な句である。一方櫂の二句は、子どもと浮寝鳥だけにスポットライトを当てているが、子どもと浮寝鳥が月光の輪の中へ自ら入っていったという意志を感じさせる動的な句だ。俳句はわずか十七音の詩である。ゆえに同じ句材でもわずかな措辞の違いが大きな印象の違いを生む。
 また、櫂の二句はロシアからの砲撃が止んだ束の間、月光の下で眠る子どもと浮寝鳥を私は想像する。このように読者が自由に想像を広げることができるのも俳句の持つ醍醐味だ。(齋藤嘉子)

 眠りは、人間のもっとも原初的な行為である。〈朝寝して眠りの神の懐に〉(『初雁』)。朝寝、昼寝、昼寝覚。作者は食とともに、睡眠もよく詠む。虚飾を剥ぎ取った、覚醒の対極にある、無防備な「素」の姿が眠りである。
 〈子の睡りもつとも深し苔の花〉(『定本 古志』)の句があるが、眠る子の句は、作者には珍しい。子どもは長時間、無心にむさぼり眠る。月光は母性的なものの象徴でもあろう。母性的なものに抱かれて、安心して熟睡する子ども。掲句は、眠っている子どもが月光を浴びている情景を詠んだシンプルな句だ。余分な修飾は何もない。「月光に入つて眠る」と、積極的に踏み込んで詠んだ点にこの句の眼目があろう。踏み込む視点の重要性を、作者は句会でもよく説いている。
 月光は、また宇宙的なもののシンボルでもある。子は母性に抱かれ、宇宙に抱かれて、安心して熟睡する。
 第七句集『初雁』所収。2002年から04年までの句を収める。掲句は2002年の句だ。作者は、『初雁』のあとがきに、「豪雨、猛暑、また冷夏、度重なる台風の襲来と天変地異が相次いだ」、とくに2004年はゆかりの深い新潟県中越地方が地震に襲われ、「動揺のなかで年が暮れた」と記したが、2011年3月には東日本大震災、東電福島原発事故が勃発する。
 大災害や大事件、悲惨な事故、激変続きの時代のつかの間の安寧。大人になった子どもを待ち受けているのはどんな運命なのか。2023年夏にあらためてこの句を読み返すと、掲句の安らぎと幸福感が貴重に思えてならない。(長谷川冬虹)

風出でて今宵の月の凄からん『初雁』

 読者は掲句からどんな情景を思い浮かべるだろうか。恐らくは、どこかの山峡、灯りもない闇の中、切り立った山影に風が吹き付けているような場所、例えば出羽三山のようなところだろうか。いや、中国の山水画の題材になる場所、例えば桂林の山々、あるいは三大霊山の一つである峨眉山が思い浮かぶ。
 前書きによればこの句は新潟の弥彦で詠まれ、『初雁』ではこの後に月の句が七つ続く。その中で掲句が異彩を放っているのは、風が雲を払い、山影に出た青白く冷たい満月の光が煌々と四方を照らす、この様子を「凄からん」と形容したからかもしれない。
 秋の月を季題とすると、真ん丸な形、明るい光から落ち着いた詩情を詠むことが多い印象がある。しかし調べてみると、白居易「聞夜砧」には〈月苦(さえ) 風凄(すさまじくして) 砧杵(ちんしよ)悲(し)〉という一節がある。また、西行の『山家集』には〈山深み真木の葉分くる月影ははげしきもののすごきなりけり〉という一首があった。これら古今の詩歌に歌われた、風吹く夜の月の不気味さ、「凄さ」を俳句の世界に展開した一句と言えよう。(臼杵政治)

 「弥彦、中秋の名月」と前書にある。弥彦は、越後平野にそびえる、標高634メートルの弥彦山のこと。山全体が弥彦神社の境内に含まれる。作者が新聞記者として、新潟に赴任していたとき、弥彦山は作者を包み込んでくれるような山だったのではないか。
 掲句は、中秋の名月の夜、弥彦山にかかる月を詠んでいる。明るく大きな月が高々と空を行く。風が出てくれば、月が薄い布をたぐり寄せるように、雲がかかることもある。そうかと思えば、月はまたその雲をさっと放つ。空を舞台に、山と、月と、風と、雲が無言で織りなす劇のようだ。人が見ていようと見ていまいと、夜をかけて続く。
 「凄からん」の「凄」には、人間の力の及ばない世界に対する敬意が込められている。しかし、「凄からん」の「らん」は現在起こっていることに対する推量の助動詞「らむ」だ。今宵の月は凄いだろう、ということだから、作者はこの月を観て詠んでいるのではない。かつて新潟赴任の際に観た、弥彦の月を思い出し、惜しんでいる。(藤原智子)

天の川この世の果に旅寝して『初雁』

 格好つけた句である。若さに近い青さも感じる。
 この世の果てとは一体どこなのだろう? 北海道の野付半島? ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬? きっと、どこでもない。この句は、例えば芭蕉の〈荒海や佐渡に横たふ天の川〉と違い地名に言及していない。
 人生は旅だとよく言う。そしてその旅は、もしかすると明日突然終りを迎える可能性もある。そういう意味では、私たちは常に“この世の果て”を生きているのかもしれない。
 作者は天の川の下で悠久の宇宙を感じ、生と向き合っている。句が深刻にならないのは「旅寝」による「かるみ」だろう。
 壮大な句ではあるが、一方で季語の「天の川」の取り合わせが安易な気もする。全体が大掴みなので、芭蕉の句のようにもう少し具体的な季語(もしくは言葉)を取り合わせることで、より深みが増すのではないか。
 まぁこういった格好つけた句、私は好きなのだが。(森凜柚)
 
 「世」には「この世」と「彼の世」とがあるとされている。古来「天の川」は「彼の世」と結びつくものと考えられていた。「この世」を後にした者は「天の川」の無数の星の一つになる。だから、この句の主人公は「この世の果」に「旅寝」しながら、やがて訪れることになる「彼の世」を遥かに眺めていると言っているようだ。
 「天の川」の後に切れがある。この切れは「この世」と「彼の世」との切れ目のように深い。そこにはまさに広大な時空が広がっている。「この世の果に旅寝」する者の命のはかなさと「天の川」という悠久の世界が一つの詩的空間を創り出しているのだ。
 作者はかつて自らの著書を『俳句の宇宙』と名付けた。俳句はちっぽけな詩であるけれども無限の宇宙を孕んでいる。そんな思いがこの句にも込められている。(村松二本)

                     

花入は竹一節やけさの秋『初雁』

 季語は「けさの秋」、立秋である。人は季節の変わり目を様々なものから感じる。感じたものを詩歌は言葉で掬いとる。作者は一節の竹に、今朝秋が来たことを感じた。
 一節の竹は、瑞々しい若竹だろうか、色を増した青竹か、あるいは歳月を経た煤竹か、白色に近い老竹色と思いたい。ふっと、花入にはまだない花が存在するような気になった。句から花が視える。ないものをあると感じさせる力がこの句にはある。花とは竹の命がもつ花である。ものの命の本質をしっかりと捉えているからだろう。
 句集『初雁』は2002年から2004年までの489句が収録されている。作者はあとがきで天変地異が相次いだと書いている。天変地異は、地球上の命あるものが上げる悲鳴である。作者はその悲鳴を聞き逃さない。豊かで鋭い感性でものの命を大きく深く捉える。命は一句の花となる。そんな句が『初雁』にはたくさんある。『初雁』は長谷川櫂の句集のなかでも、大きな山となる句集ではないだろうか。(きだりえこ)

 竹を使った花入は、千利休がはじめて作ったとされる。それまでは中国伝来の金ものが主流であったが、利休の眼と手によって竹に新しい美と様式が見出された。ここにも利休の真骨頂がうかがえる。特に、天正18(1590)年、秀吉が北条征伐のために小田原に兵を進めたとき、伊豆韮山の竹で作った「園城寺」「尺八」「夜長」の三種は、その後の竹花入の基本となった。
 掲句を読んだとき、三種のうちの「尺八」を想起した。この「尺八」と銘がつく花入は、真ん中より少し下に一節のみ残して、その他の節をすべて切り落とした簡素極まる造形で、寸切(ずんぎり)とも呼ばれている。竹という素材がもつ簡素な質感を十二分に活かして、無駄な装飾をばっさり削り去った清々しさが、見るものの心まで軽くする。
 この句には、どんな花が活けられているかまでは描かれていないが、活けられた花の本然が引き出されたに違いない。
 「けさの秋」という季語は、立秋となり、残る暑さの中にも秋に向かう兆しが微かに感じられるところを掬いとったことばであるが、充実の句集『虚空』を上梓した平成14(2002)年に作られたことを考えると、四十八歳の櫂自身の心持ちまで包含した一句と考えたい。人生の秋の入り口に立ったという思いをこの句に重ねると、この「竹一節」という表現が、俳人・長谷川櫂の生き方の理想を象徴的に浮かびあがらせる。すっきりしていて力強い櫂の俳句の理想をも垣間見させてくれる句である。俳諧の一筋につながり、この道に生きていく決意を読み取ることができる。(渡辺竜樹)