太陽のとほれる道に返り花『富士』

 冬の日が、まさに沈んだとき、見上げたら返り花が風に震えていたというような意味だろうか。それなら、なぜ「後」ではなく幅広い解釈ができる「道」を選んだのか。
 「太陽の道」と言われれば、一年では黄道であり、一日では日周運動である。どちらにしても、私たちを取り巻く、大きな自然である。一方、返り花は季節に反した、本来あってはならない花である。すなわち自然に反したものである。
 しかし「太陽の道」、その大きな自然は説明図では見ることができるが、実際目にすることはできない。返り花は、自然に反しているが手に取り、見ることができる。
 私たちの世界(この世)は、目に見えるもの見えないもの、自然なものと不自然なもの(人間世界で言えば、条理と不条理)が入り混じって存在して、それらは大きな銀河の中にあるのではないかと考えさせられる句である。さらに言えば、その銀河も、広大無辺の暗黒の中にある。(稲垣雄二)

 平明に思えて、実は不思議な句である。一般的には「返り花」の句はどこか寂しい気配があるが、掲句は明るさを纏っている。なぜであろう。
 太陽は宇宙の真ん中にどっしりとあり、地球はその周りを公転している。すなわち、〈太陽のとほれる道に返り花〉とは、地球が時節外れの返り花を咲かせることができるのは、太陽があるからこそであると言っているのだ。これは作者の世界観にも通じるのではなかろうか。まさしく掲句の眼目は「返り花」ではなく、「太陽」なのである。
 ある物理学者は言う。「いま降ってきている太陽の光は四千年前のもの。」と。四千年前の光で植物も生き、そして人間も生かされているのだ。作者はつくづく感動し、その心の弾みが掲句に昇華されたに違いない。宇宙と触れ合ったかのように。斯くして向日性のある句となった。すっきりとした句姿も句を大きくしている。最初に不思議に思えた謎が解けた。作者の気宇壮大な詩精神である。(谷村和華子)

風吹いて吹雪となりぬ雪柳『新年』

 この句の解釈には二通りある。一つは、風が吹いて雪柳の花が吹雪のように散ってしまった、という解釈。もう一つは、風が吹いて雪柳の花がまるで吹雪のような状態になった、という解釈。同じようでありながら、吹雪を花が散ってゆく様子とみるのか、花は散らないまでも吹雪のさ中のような姿となったとみるのかで異なるが、筆者は後者をとる。
 本物の吹雪を経験すればわかるように、雪風は、ただ一直線に吹くだけではなく、速い風筋、遅い風筋、あるいは降下する風筋、逆巻く風筋など、幾筋もの風筋が捩れ、乱れるように吹いていることがわかる。
 ちょうど雪柳の様々な向きの枝が一方向に吹かれたとき、本物の吹雪の風筋のようにみえた気づきを詠んだのが掲句であろう。静から動への一瞬の変化、いわゆる乾坤の変を見逃さず、たちまちに見立ての句を成したのだ。
 風が止んだとき、またもとの雪柳にもどって春の光のなかに白い小花を揺らしている。(渡辺竜樹)

 「風が吹いて雪柳がまるで吹雪のように揺らいでいる」。散文で書けばこれだけのこと。しかしこれでは原因と結果の説明だけで面白味がない。散文から韻文への跳躍にかかせない二つのもの「見立て」と「切れ」がこの句を俳句たらしめている。
 まず「見立て」。この句は、風に揺れる雪柳を吹雪に見立てている。しかし近年の俳句で多用される「のような」や「ごとし」あるいは「ごとく」は使われていない。
 もう一つの「切れ」。「なりぬ」と「雪柳」の間に「切れ」がある。「風吹いて吹雪となりぬ」は、これはこれで一つの自然界の姿だが、そこに「切れ」があって「雪柳」と続くと、「間」が生じる。時間と空間のひろびろとした「間」だ。眼前にさあーっと、白い雪柳の風に揺らぐさまが、立ち現れるから不思議だ。
 「見立て」と「切れ」によって、この句から、雪柳が目の前で大きく揺らぐさまがありありと浮かび上がってくる。これこそ俳句の醍醐味。(きだりえこ)

蛇となり蓮華となりて鳥交む『新年』

 比喩の句である。蛇や蓮華のようになって、鳥が交尾をしているのである。写実に忠実な読者は、蛇のごとく尾の長い鳥なのだとか、二羽の重なった形が円い蓮華のように見えるとか細かいことを考えるのかもしれない。だが、かたちが云々と理屈を言い始めるとこの句などは大変つまらなくなる。
 蛇や蓮華というのは「感じ」である。それも、内側からの感じ、つまり、鳥そのものの生命の宇宙に入り込んでいる感じだ。あたらしい命を生み出す行為の内側にある、躍動する春の生命感、そんなかたちのないものにかたちを与え直した後の姿が、おどろおどろしくも神の使いともなる蛇であり、また、泥に出でて天上の菩薩の座ともなる蓮華なのだという気がする。
 やまとうたの源流を思う。古来、私たち日本人は対象(自然)と一体だったはずである。今の私たちは対象との間に堅固な壁を築いてしまってはいないだろうか。そこから考え直したい。(イーブン美奈子)

 蛇となり蓮華となって鳥が交んでいる。つまり、激しくそして静かに鳥が交んでいる。そういう句だ。蛇は動の象徴、蓮華は静の象徴と言える。
 では「激しくそして静かに」と形容詞で詠んだ場合と「蛇となり蓮華となりて」と具体的なものに置き換えて詠んだ場合とでどう違うだろう。形容詞の場合、そのまま激しくそして静かに鳥が交む様子を想像する。一方、具体的なものを措いた場合、当然まず蛇や蓮華の姿を思い浮かべ、その後、鳥が交んでいる様子を思い浮かべる。
 ここで意外なことが分かった。最初は形容詞の場合の方が読者の想像に任せる範囲が大きく、句にふくらみが出ると考えていた。だが実際は一見読者の想像を限定させてしまう具体的なものの方がいきいきと鳥が交んでいる様子が浮かんでくる。なぜだろう。形容詞の場合、想像力は形容詞を映像に置き換えるのに使われる。一方、具体的なものの場合、想像力はすでに提示されている「蛇」や「蓮華」の心情を想像するのに使われる。それにより、心情的により深く「鳥交む」情景を思い浮かべることができるからではないかと思う。
 ここで措かれる具体的なものは読者の想像を促すに足るものでなければならないのは当然だ。つまり句の成否は何を措くかによって決まる。これも当然だ。(三玉一郎)

太陽と月の間に涅槃せり『新年』

 一見シンプルな構図のようだが、わかるかと言えばわからなくなる。太陽と月の位置的な間なのか、太陽が行き、月が行く時間的な間なのか。
 釈迦の入滅の日とされる二月十五日(陰暦)。釈迦はクシナガラにて沙羅双樹のもと、北枕に右脇を下に横臥して入滅した。入滅の釈迦は、涅槃仏、寝釈迦とも言われる。馳せ参じた弟子や菩薩、様々な階層の人々、様々な鳥獣、天から薬袋を持参した生母などが嘆き悲しむ姿が描かれた涅槃図はいくつかの寺で見てきた。そこに描かれた安らぎの境地が印象的だった。
 十五夜の満月は太陽が西に沈んでから東の空に出てくる。一晩中空に見え、次の日の朝早く西に沈む。満月の夜に横臥し、眠った姿を「涅槃せり」と表現したのではないだろうか。寝釈迦の安らぎを我が身にもと、作者は〈大いなる身をはばからず寝釈迦かな〉(『虚空』所収)と詠んだ。この句の諧謔味を掲句にも感じるのである。(木下洋子)

 「涅槃」という季語を使って俳句を詠む場合、大きく分けて、涅槃会や涅槃の日を詠む場合と涅槃像や涅槃図を詠む場合とがある。後者では、涅槃像や涅槃図が釈迦入滅の様子を表現しているように、釈迦入滅すなわち涅槃そのものを俳句に詠む場合もある。
 掲句はどうだろうか。この句に描かれているものは、「太陽と月の間」である。太陽と月の間にあるもの、それは地球であり、地球上にいる存在すべてである。地球上に起こることは、すべて「太陽と月の間」に起こるのだから、どんなものにもあてはまってしまう。
 しかし「涅槃せり」ということで、事態は変わる。涅槃は「釈迦」という固有名と切り離せない出来事である。しかし、これは特殊な出来事ではなく、地球上のあらゆる出来事と変わらず、太陽と月の間に起きたといっているわけだ。仮に涅槃を「死」ではなく「悟り」ととっても同じである。これは釈迦の教えとも響き合うものである。だから、この「涅槃せり」は取り換えがきかない。
 また、「日」ではなく「太陽」というところもポイントだろう。例えば〈日と月の間に涅槃し給へり〉といえば、報告にしかならないし、イメージも仏教美術のなかの紋切り型にしか感じられない。つまり、いまここで起きているという感じがなくなってしまう。
 この句には対象のディテールも、感覚器官の働きもない。にもかかわらず、リアルに感じられるのは、いまここにいる感覚、つまり地球上のあらゆるものと同等に存在している感覚を呼び起こさせるからだろう。(関根千方)

よき人の夢の中ゆく鯨かな『新年』

 掲句は万葉集の歌〈よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ〉(巻第一・二十七・天武天皇)の「よき人」の置き方に通ずるものがある。踏まえて詠まれたのではないだろうか。歌の「よき人(淑人)」とは皇后で、のちの持統天皇である。だから、掲句の「よき人」も傍らに眠る妻だろう。その夢の中を鯨が悠々と泳いでいるようだと言っている。鯨は作者なのか。妻を見つめる穏やかな眼差しとやわらかな空気が伝わってくる。
 天武天皇も作者も「よき」という言葉の力で妻を言祝いでいる。この人と生きてゆくという強い結束の気持ちがあってこその歌であり俳句である。
 掲句が万葉の歌を踏まえていると主張するのはいささか強引な感もあるが、掲句の収められた句集『新年』(2009)と同年に発表された著書『和の思想』の中で作者は「この国には太古の昔から異質なものや対立するものを調和させるという、いわばダイナミックな運動体としての和があった」と述べている。
 作者の時空を超えた大きな視点を考えると、「よき人」もダイナミックな運動体としての和と言えないだろうか。(髙橋真樹子)
 
 大海を悠々と泳ぐ鯨。その鯨が夢の中を進んでゆくというのだ。夢を見ている人は、大層心地よい眠りの中にいることだろう。まるで、鯨が「よき人」を選んで、その夢の中に現れたようにも感じられる。何らかの善行を積んだから鯨の夢を見ているのではなく、鯨の夢を見ていることこそが「よき人」の証しであるのだ。そして、その夢を見ているのは作者ではない。鯨の夢を見ている「よき人」を、作者がまた心に思い浮かべているのだ。
 このような不思議な感覚は、「鯨」の持つ何か人智を超えた存在感に加えて、上五中七の「よき」「夢」「ゆく」とヤ行が続く流れるようなリズムと、下五「かな」の余韻によるものであろう。
 掲句は、句集『新年』に、〈わだつみの眠りの中をゆく鯨〉の句とともに掲載されている。二句を合わせて読めば、海神が眠る静かな世界を泳いでいた鯨が、いつのまにか、人間の夢の中に迷い込み、ひと時遊んだ後に、また豊かな深い海へと戻っていくようでもある。(田村史生)                                              

蟻地獄均されてまた新しく『初雁』

 作者には珍しい蟻地獄の句。ウスバカゲロウの幼虫がつくる蟻地獄は、砂地にすり鉢のようなくぼみを作って、迷い落ちてきた動物をくぼみの中心部で捕食するのだという。掲句はこのくぼみをいったん誰かが均したあと、蟻地獄がまた新たにくぼみを作り出しているところを詠んだ句であろう。
 灼熱の砂地でひっそりと繰り返される蟻地獄の営みは、戦を起こし、戦死者を生みださずにはおれない、あるいは他者を貶めて悦楽的な気分にひたりがちな人間の業を想起させる。実際、作者は後年さらに直截に〈深閑と心の奥の蟻地獄〉(『沖縄』所収)と詠んでいる。
 人は誰しも、心の奥底に、攻撃や破壊、権力欲や支配欲などの暗い衝動を秘めていよう。人間自体がまさに蟻地獄的な存在なのだ。捕食される獲物だけでなく、蟻地獄自体が永遠に蟻地獄的な状況から脱出できないのだ。その結果、〈夏草やかつて人間たりし土〉(『沖縄』所収)のような荒廃した状況が現出する。(長谷川冬虹) 

 蟻地獄とはウスバカゲロウの幼虫で、乾いた砂の中にすり鉢状の穴を掘り、滑り落ちた蟻の体液を吸い、その後その死骸を穴の外に放り出す小動物だ。
 加藤楸邨に〈蟻殺すしんかんと青き天の下〉(『颱風眼』所収)がある。楸邨が蟻と対峙している時間と、掲句の作者が蟻地獄に向き合っている時間は、同質である。楸邨も作者もDNAに従って何の感情も持たず、黙々と活動する昆虫を凝視し、殺したり穴を均したりと理不尽なことをする。
 楸邨も作者もある時間、無心に小動物達を眺め、いつしか昆虫も人間も同じ哀れな生き物だと感じる。殺されれば文句のつけようもないが、均された蟻地獄は、何が起こっているのか認識すらせず同じ動作を繰り返す。ただし、宇宙から地球を眺めると、戦っては陣地を広げようとする人間と昆虫に違いはない。
 ひとしきりこんなふうに、昆虫と人間の哀れさに思いを馳せ、作者は立ち上がり去って行く。勿論、もう一度穴を均して。(齋藤嘉子)

はかなしと聞き入る祇園囃子かな『初雁』

 「はかなし」は、あっけないということ。
 「こんちきちん」の祇園囃子は、鉦方、笛方、太鼓方からなる。7月初め、囃子方の稽古「二階囃子」が始まり、7月13日の山建、曳き初めのあと、宵囃子の舞台が整えられる。「この十三日の夜、そろいの浴衣に身をつつみ、全員うち揃って祇園囃子が始まった」(『祇園会』中村汀、平成17年)。
 16日の宵山にかけ、京都の夜は賑わう。「幔幕に飾られた町家、路上にひしめく露店。駒形提灯が鉾の形を浮かびあがらせ、祇園囃子が流れる」(同)。
 17日の山鉾巡行は、朝9時に始まる。「お旅所までは囃子もいわゆる『こんちきちん』のイメージと違って、荘重な、きわめてゆったりしたテンポの曲(後略)」(同)。「烏丸御池を過ぎると山鉾はそれぞれの町家に帰っていく。(中略)次第に囃子のテンポは早くなり、町家の前に来たところで最高潮になる。興奮のうちに囃子が終わると、今年の巡行は終了する」(同)。
 「はかなし」は、祭を惜しむ心。(藤原智子)

 季語は祇園囃子。7月に京都で行われる祇園祭の期間、約1か月演奏される鉦・太鼓・笛の演奏である。
 結社古志では祇園祭のハイライトである7月17日の山鉾巡行に合わせて、句会を開催している。掲句も2002年の祇園祭の際に作られた。
 句集『初雁』には2002年の祇園祭を題材に11句が掲載されており、その最初が〈炎天へ長刀鉾は揺らぎ出づ〉である。山鉾巡行の口火を切るのが長刀鉾ということなので、まさに山鉾巡行への期待と興奮を垣間見せてくれる。それに続く9句も鉾を詠んでおり、11句の最後に置かれた掲句になって初めて鉾以外が題材になっている。
 30余りの雄大で美しい山鉾が通り過ぎ、巡行が終わりに近づく頃、ずっと聞き続けてきた祇園囃子に心を寄せ、ああこの太鼓や鉦も鳴り終わるのかと淋しさを感じているのだろうか。「はかなし」という措辞の背後には、ハレからケに戻る時に感じられる、虚しさや頼りなさがあるような気がする。題材は全く異なるが〈春雪三日祭の如く過ぎにけり〉(波郷、『酒中花』所収)にも通じるような淋しさがある一句だ。(臼杵政治)

かたくなに廻らぬ鉾を廻しけり『初雁』

 かたくなに廻らない鉾を何としても廻さねばという鉾町の人の使命と誇りを作者は透かさず感じ取っている。掲句の次に〈長刀鉾扇の風に廻りけり〉、その次に〈鉾町に生れて鉾の奴かな〉と続く。鉾は鉾町の人にとって神鏡であろう。何ひとつ見逃さない視線。心を逸らさず何でも俳句にしてしまう俳人の心と姿がみえる。
 作者の吉野山の桜や祇園会に対する枯れることのない思いは何であろう。いずれもこの世の無常そのものである。毎年、吉野山や祇園会に足を運び、虚と実の世界を往き来するような世界に身を置き、句にする。無意味かと思える程の時間の反復の虚無。その虚無の中にとどまり、そこから歴史と生を身体で感じ取り句にする。
 作者が少年時代に感じていた無常観、それが何ら変わらないという答え合わせなのではなかろうか。(谷村和華子)

 京都祇園祭のハイライトは、巡行の辻廻しである。鉾の向きを90度変える勇壮な行為で、拍手喝さいである。テレビでは、最後の場面だけを放映することが多いので、美しく1回だけでぐるりと鉾を回していると思っている人も多いと思う。しかし、2回、3回と曳いてやっとこさ進行方向へ鉾を向けることができる。このことを知っていると、この句の面白さが実感できる。
 そして、「かたくなに」がどのことばに係っているか考えなくてはならない。「かたくなに」が「廻らぬ鉾」に係るとすると、鉾が擬人化され、人間なんかに動かされてたまるかと踏ん張っている巨人が見える面白さがある。「廻しけり」に係るとすると、鉾を何とかして動かそうとして、あれこれ手を尽くし、右往左往している人間の必死の中の滑稽さが見えてくる。
 「かたくなに」が、「廻らぬ鉾」と「廻しけり」の両方に係ると考えたら…。読者の鑑賞力を窺っている恐ろしい句である。(稲垣雄二)

長刀鉾からくれなゐのただならね『初雁』

 正直祇園会は苦手である。蒸し暑い京都の街なかで、人にもまれ朝から立ちんぼで鉾を待つのは、苦痛以外何者でもない。所詮よその町の祭りじゃないかというやっかみもある。しかし都大路に長刀鉾が現れると、ああ来てよかったと心底思うから不思議だ。まさしく「からくれなゐのただならね」なのだ。
 長刀鉾は、祇園会のハイライト山鉾巡行の先頭をゆく「くじ取らず」の鉾であり、鉾に乗る生稚児が注連縄を切って巡行が始まる。「からくれなゐ」とは、鉾が纏う緋色のことか。いや、ぐらっと天地をゆるがせ悠然と近づいてくる長刀鉾そのものだ。長刀鉾は祇園会の象徴でもある。だから祭りもまた「からくれなゐのただならね」なのだ。句集『初雁』にはこの句を含め祇園会の句が11句並ぶ。
 山鉾巡行は半日だが、京の町衆はそれこそ一年かけて祇園会の準備をする。災害や戦乱等の危機に見舞われても、町衆の心意気が千年以上続く祭りを支えてきた。巡行に至るまでの数限りない行事は、全て町衆に支えられている。 
 祇園会で俳句を詠むとは、物見遊山の報告ではない。町衆が支えてきた祭りを俳句で称えることだ。長谷川櫂は毎年祇園会に足を運び句を詠む。祭りを称え俳句で町衆の一人になるのだ。(きだりえこ)

 祇園祭の数多い山鉾のなかで、生稚児が乗る鉾は長刀鉾のみである。7月17日、斎竹に張られた注連縄が稚児によって切られると、1.13メートルの長さの長刀が鉾頭についた長刀鉾は、先頭を巡行しながら神の領域に入っていく。長刀は疫病をはらうものと言われており、長刀鉾は「くじとらず」とされ、必ず巡行の先頭となり、祇園祭を代表する鉾となっている。
 鉾を飾る前懸はペルシャ花文様絨毯、胴懸にはモンゴルを含む中国近辺で製織された玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯など、16世紀の希少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元新調品となり、見送の雲龍波濤文様綴織、下水引の五彩雲麒麟図刺繍も復元した新調品を使用している。どれも鮮やかな紅が目を引く。
 「くれなゐ」とは中国の呉から伝わった「呉藍(くれのあゐ)」と呼ばれていたが、だんだんと言葉が変わり「紅(くれなゐ)」と言われるようになった。外国から伝わるものはどれも高価であこがれの的であり、とくに紅花は、黄金に匹敵するほど高価で貴重なものだったがゆえに、平安時代には、高級な船来品ということを強調するため「韓紅」「唐紅」と言うようになった。この祭から受ける舶来の美に心動かされた五木寛之は、小説『燃える秋』で、京都の祇園祭を舞台に設定し、ペルシャ絨毯の本場イランへと旅立つ女性を主人公にして恋愛模様を描いた。
 この句、その「からくれなゐ」がよほど目に鮮やかだったのであろう。絢爛たる巡行の様子を色に焦点をあてて描き、この祭の華やかさを際立たせている。(渡辺竜樹)

乾坤のここによきこゑ雨蛙『松島』

 この句は、蛙の声を呼んでいるというだけでなく、言葉の連なりとしても聴覚的な句である。上五中七の「KenKonno KoKoni yoKiKoe」と書くとわかるが、K音がリズミカルに配置されている。
 聴覚を刺激されるのは、音のせいだけではない。この句を読んで、雨蛙の声が再生されるのは、読み手の耳が開くからである。なぜ、読み手の耳が開かれるか。ポイントは「ここ」という指示語にある。この句には視覚的なイメージが排除されている。だから「乾坤のここ」といったとき、われわれの視覚的イメージを想起するより先に、耳をすます。
 この句は、句集『松島』では、瑞巌寺と前書きされた句の並びに収められており、直前の句に〈雨蛙瑞巌禅寺ひびかせて〉があるから、句集で読むと気づかないかもしれないが、この一句だけ切り出して読むと、あきらかにこの句は視覚的に場所を特定させるものが取り除かれている。だから具体的な何かを耳で探すほかない。
 つまり「乾坤のここ」とは、今この句を読んでいるこの場にほかならない。だから、この句を読むたびに、今ここでこの雨蛙の鳴き声が再生されるようになっているのだ。(関根千方)

 乾坤は天地自然のこと。芭蕉の門人の服部土芳の俳論書『三冊子』の中の「赤冊子」に〈師の曰く「乾坤の変は風雅の種なり」といへり。〉とある。天地自然の変化はすべて俳諧の素材であるという。天地自然の変化は永遠につづく。太陽が上り沈み、月が上り沈み、季節が移りゆく。
 留まることのない乾坤の変であるが、掲句は「ここに」と一瞬を切り取った。そこに「よきこゑ雨蛙」。「声」でなく「こゑ」の表記で、中七に悠々とした趣が生まれる。天地自然の中、小さな雨蛙が命の輝きを放っている。まさに俳諧である。
 『松島』には「雨蛙」の句が他に二句掲載されているが、「命の讃歌」として掲句が心に残った。また、櫂は「乾坤」の句をいくつか詠んでいるが、『長谷川櫂 自選五〇〇句』にあるのは〈乾坤に水打つ秋の始めかな『虚空』〉〈乾坤のぐらりと回り秋に入る『富士』〉である。「乾坤」で詠んでみたくなる。(木下洋子)