短日の朝から暮れてしまひけり『震災句集』

 2012年『震災句集』の第八章の一句。
 冬に昼がどんなに短くなっても、中七の「朝から暮れて」は現実ではない。ただ、作者にはそう感じられたわけであり、ここはその気持ちを表現した暗喩と言ってよいだろう。例えば、『長谷川櫂 自選五〇〇句』にも収録された〈したたかに墨を含める牡丹かな〉(『初雁』初出)という句がある。植物が墨を含むことは現実にはないけれども、紫やそれに近い紫紅色などの牡丹が墨を含んでいるようだ、という暗喩である。
 では、なぜ「朝から暮れ」るような気持になったのか。掲句が東日本大震災のあった2011年の暮れに詠まれたからだろう。掲句の4句あとの〈人間に帰る家なし帰り花〉という句と同様に陰鬱な気持ちをこの表現に託したのではないか。
 ただ、その少し後には〈月蝕のあとまどかなる冬の月〉があり、掲句の前にも〈人変はり天地変はりて行く秋ぞ〉がある。地震による未曽有の被害を悼みつつも前へ進もうという気配が感じられる。(臼杵政治)

 一年の中で夏至の日の昼がいちばん長く、冬至の日の夜がいちばん長い。しかし、私たちは、冬、昼が短いのを惜しんで「短日」といい、春の「日永」を待つ。また、夏、夜が短いのを惜しんで「短夜」といい、秋の「夜長」を待つ。「短日」をはじめとする季語は、実際の昼夜の長さではなく、惜しむ心と待つ心から生まれたといえるだろう。
 掲句は、太陽がやっと昇ったかと思うと、もう沈んでしまったのだ。「なんとまあ」という気持ちが「けり」には込められている。それにしても「朝から暮れて」は、やや言い過ぎではないか。
 思い起こすのは〈明易くなほ明易くならむとす 谷野予志〉の句である。畳みかけるような表現は、自転し、公転する地球から振り落とされそうな人間の姿を浮かび上がらせる。掲句の「朝から暮れて」は、日の短さを大いに嘆いている。震災に傷つきながらも、季節という巡りの中にいて、惜しむ心と待つ心を支えにしている人間の姿が描かれている。(藤原智子)