ずっと気になっていた句である。「なんと気持ちのよいことだろう。俳諧には入る門も出ていく門もない。だれもが自由に句を作り楽しめばよい」と解釈していた。俳句(俳諧)の面白さを称えた句だと思っていた。しかし「爽やかに」と「俳諧に」の二つの「に」がどうしても気になる。
〈爽やかや俳諧は門なかりけり〉であるならば、意味は同じかもしれないが、句から受ける感じが違う。声に出してみると良く判るが、「爽やかや」では、重苦しいのである。なにか押しつけがましさを感じてしまう。
もう一つ「俳諧に門」も同じかもしれない。「俳諧に門」「俳諧は門」どちらにしても「俳諧には門などない」という意味だろうが、これも風味が違う。言葉には風味があると、長谷川櫂はよく言う。この句もその風味をしっかり味わう句ではないだろうか。まさしく俳句こそ風味がその真髄なのだ。
2011年刊行の『鶯』の帯の一句。その年「古志」の主宰を大谷弘至氏へ譲っている。新しい主宰へのはなむけの句であるかもしれない。(きだりえこ)
どこから入ってもよい、いつから入ってもよい、そういう自由なところが俳諧にはあって、いかめしい門などはない、ということをこの句は詠んでいる。
五七五の世界は、形式の短さから誰にも入りやすい。年功に比例して腕があがるような単純なものではなく、昨日今日はじめて作ったこどもの俳句に珠玉の輝きをみとめることもある世界である。まして、段位などあるはずはなく、格付けなど無意味に等しい。
作者の櫂自身、俳人組合的な団体に属さず、協会での栄達に色目をつかうことなど視野になく、作句と批評を両輪にして、四通八達にして仕事を押し広げている。
山本健吉『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)によると、「爽(さはや)か」とは、「さっぱりとして快いこと、気分のはればれしいこと」とある。
こんな爽やかな世界において、自由自在にのびのびと生きる作者のはればれとした気持ちがよく出ている。またそういう場所からしか本物の俳諧は生まれない、と高らかに宣言しているような「けり」の詠嘆がよく響いている。(渡辺竜樹)