大文字こよひの風にひるがへる『鶯』

 上五に堂々と「大文字」と措いた。誰もがあの「大文字」を頭に思い浮かべる。京都の五山に焚かれる火はお盆に迎えた、亡くなった人の魂を送る行事。作者はこの炎によって描かれた「大文字」が「こよひの風にひるがへる」と詠んだ。「大文字」が「ひるがへる」ととらえたことが手柄だと思った。最初は。
 火が消えるころ魂はあの世へ帰ってゆくが、思い出は一層鮮明に心中に残る。つまり「大文字」だけでなくその魂までもがひるがえるのだ。さらには「大文字」を伝えてきた京都の季節の移り変わりを「ひるがへる」と詠んだとは言えないだろうか。「ひるがへる」の意味は一つだが、その対象は色々にとれる。
 この句は形としては一物仕立てであることに間違いはない。しかし、こころの中でさまざまなものがひるがえるのだとすれば、句の形とは別に読み手にとっては取合せの句になるのではないか。もし仮にそうだとすると「大文字」は目に見えている炎ではなく、魂を送る行為そのものでありそれぞれの人のこころが土台になる。
 ゆるぎない一物仕立ての句でありながら読み手の想像力でさまざまなものをひるがえらせる。大文字の炎のようだ。(三玉一郎)

 『鶯』を読み返した。季語索引を見ると「大文字」が最多で12句もある。ちょっと意外だったので他の句集も調べたところ、「大文字」はどうやら2005年から5年間ほどに限って多作され、以前も以後もそれほど詠まれていないようだった。『鶯』以外では『新年』に12句、『蓬萊』『初雁』に3句ずつしか見られない。
 もちろん単に、実際に見に行ったから、という理由もあるだろう。しかし、この作品数の顕著な違いは何か。ふと、大文字は作者の心の鏡だったのではないかという仮定が浮かび上がった。『鶯』には〈わが前に大文字のただ一字あり〉という句もある。師を失った後の作者が独立した一俳人として歩んでいく、その眼前を大きく静かに翻っていたのが大文字だったような気がするのである。
 掲句の大文字は、虚の世界の中、ただ闇に浮かぶ一枚の大きな文字として存在している。そこには山もなければ人もいない。純粋な大文字そのものだけ、あるいは大文字の形をした目に見えない何かだけを作者はじっと見つめている。(イーブン美奈子)

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