このあたり煙のごとく山眠る『富士』

 2009年5月発行の句集『富士』の一句。この句集では、熱海近郊の伊豆山にあった老舗旅館「蓬萊」で詠み、50句ずつ雑誌に寄稿した俳句をまとめていると言う。
 掲句の眼目は「煙のごとく山眠る」にある。北栄の画家郭煕の『林泉高致』の一節「冬山惨淡として眠るが如し」を語源とするという冬の季語「山眠る」は、あらゆる生命活動が停止されている様子を「眠る」という語に集約している。「煙のごとく」という措辞は、活動が休止し、いのちがそこにあるかないかもわからない、消えてしまいそうな状況の直喩であろう。あるいは、この句の直後の〈火の神の山懐に冬ごもり〉と合わせて、富士山から伊豆に至る火山活動が地中に秘められたまま、冬を迎えた状況を煙に喩えていると読むこともできようか。
 この中七、下五の比喩を活かし、これらに干渉しないよう「このあたり」という上五が巧みに措かれていることにも注目しておきたい。(臼杵政治)

 描かれているのは山だけだ。「煙のごとく」であってその実体はない。「このあたり」とはどこか。句集あとがきに、伊豆山の蓬萊という旅館で詠んだ句が「積もり積もってこの『富士』という句集になった」とある。また、この句の前に〈太陽のとほれる道に返り花〉が、この句の後ろに〈火の神の山懐に冬ごもり〉があるので、「このあたり」は、作者が冬籠りする伊豆山だろう。
 では、「煙のごとく」とはどんな様子か。伊豆山という地は、伊豆山温泉と伊豆山神社から成る。伊豆山温泉は、横穴式の源泉が相模の海へ勢いよく流れ出し、「走り湯」と呼ばれる。伊豆山神社の本殿の下には、湯の神を祀る走湯神社がある。「煙」から火の神の力を感じる。
 しかし、意味では「煙のごとく」は理解できない。ぼーっと大きな山が感じられるまで風味を味わうのみだ。さらに、この句の凄みは、伊豆山、蓬萊といった、何とも大らかでよい名を句にとりこんでいないことにあるだろう。(藤原智子)