風吹いて吹雪となりぬ雪柳『新年』

 この句の解釈には二通りある。一つは、風が吹いて雪柳の花が吹雪のように散ってしまった、という解釈。もう一つは、風が吹いて雪柳の花がまるで吹雪のような状態になった、という解釈。同じようでありながら、吹雪を花が散ってゆく様子とみるのか、花は散らないまでも吹雪のさ中のような姿となったとみるのかで異なるが、筆者は後者をとる。
 本物の吹雪を経験すればわかるように、雪風は、ただ一直線に吹くだけではなく、速い風筋、遅い風筋、あるいは降下する風筋、逆巻く風筋など、幾筋もの風筋が捩れ、乱れるように吹いていることがわかる。
 ちょうど雪柳の様々な向きの枝が一方向に吹かれたとき、本物の吹雪の風筋のようにみえた気づきを詠んだのが掲句であろう。静から動への一瞬の変化、いわゆる乾坤の変を見逃さず、たちまちに見立ての句を成したのだ。
 風が止んだとき、またもとの雪柳にもどって春の光のなかに白い小花を揺らしている。(渡辺竜樹)

 「風が吹いて雪柳がまるで吹雪のように揺らいでいる」。散文で書けばこれだけのこと。しかしこれでは原因と結果の説明だけで面白味がない。散文から韻文への跳躍にかかせない二つのもの「見立て」と「切れ」がこの句を俳句たらしめている。
 まず「見立て」。この句は、風に揺れる雪柳を吹雪に見立てている。しかし近年の俳句で多用される「のような」や「ごとし」あるいは「ごとく」は使われていない。
 もう一つの「切れ」。「なりぬ」と「雪柳」の間に「切れ」がある。「風吹いて吹雪となりぬ」は、これはこれで一つの自然界の姿だが、そこに「切れ」があって「雪柳」と続くと、「間」が生じる。時間と空間のひろびろとした「間」だ。眼前にさあーっと、白い雪柳の風に揺らぐさまが、立ち現れるから不思議だ。
 「見立て」と「切れ」によって、この句から、雪柳が目の前で大きく揺らぐさまがありありと浮かび上がってくる。これこそ俳句の醍醐味。(きだりえこ)