目を入るるとき痛からん雛の顔『天球』

 お雛様は毎年必ず出して飾らないと泣くのだと祖母は妹と私に話していた。毎年、箱から出して飾るのが愉しみでならなかった。薄い桜紙でひとつずつ丁寧に顔をくるんであるのをそうっとはがす時、雛と目を合わす時、胸がときめく。
 掲句を一読して中七の「痛からん」は雛であろうと思ったが、上五「目を入るるとき」は能動態であるから、「痛からん」は雛であり目を入るる人自身でもあるのだ。
 私事であるが、娘たちが嫁ぐときや孫たちの初節句には雛人形や五月人形を木目込みで作り贈ってきた。桐塑の胴体に彫刻刀で切れ込みを入れる。その切れ込みにあれこれ選んだ縮緬をべらで入れ、着物を着せていく。これが想像以上に難しく時間を要する。そしてお頭を入れ、最後に目を入れ、これで初めて人形に魂が宿る思いがする。まだ人生の苦しみも悲しみも何ひとつ経験していない子の幸せをひたすら祈り、目を入れる。その目に宿るこのゆえしらぬ心なつかしさは何だろう。
 『長谷川櫂 自選五〇〇句』にある自筆年譜でみると、掲句は作者のお嬢さんの桃の節句に飾られたお雛様を見ての感慨であろう。娘の幸せを思う祈りの句ともとれる。(谷村和華子)

 痛覚が備わるはずのない雛でさえ、筆を以て目を描き入れるときには痛いと感じるに違いない。そんな常識にとらわれない発想がこの句の魅力と言える。
 昨年、櫂の作品をまとめて読み返す機会を得た。その際に改めて気付いたのは、この句の作者にも発展途上の時代があったということだ。考えてみれば当たり前のことである。
 大雑把な印象になってしまうが、句集で言えば『古志』『天球』がその時期にあたるのではないだろうか。あるいは『果実』の前半を加えても良いかもしれない。
 例えば、掲句ならば「顔」という措辞にそれが現れている。「雛」で事足りるのではないか。恐らく昨今の櫂ならば「雛の顔」と結ぶことはないだろう。(村松二本)