さっきから、家の硝子戸があちこちでカタカタ鳴っている。恐らく風の音だろう。風向きからすると、南側つまり春風が吹いている、もしかすると春一番かもしれない。
鳴っている硝子戸から小さな庭を眺めると目につくのが、この2、3日、急に咲き出した、赤い椿だ。そのいくつかの花が揺れて、春風と一緒に楽しんでいるように見える。まるで、ボッティチェリの「春」に登場する、風の神ゼフィロスが春風を呼び、椿も窓枠もそれを喜んでいるかのようだ。
掲句はこんな解釈ができるだろう。もちろん、硝子戸がなぜ、鳴っているのかは句中に明示していない。しかし、椿という季語からも、春風が硝子戸を鳴らしているのは明らかであろう。動作の主体にあえて触れていない点では、芭蕉の遊行柳での句〈田一枚植て立去る柳かな〉と似た構造の句となっている。主体を明示しないことが句に余白を生み、読者の想像の世界を広げる効果を持っている。それは例えば〈春風に硝子戸の鳴る椿かな〉とした場合と比べれば、明らかであろう。(臼杵政治)
「家中の硝子戸の鳴る」と「椿」の取り合わせの句だ。中七のあと、句は切れる。また、切字「かな」で大きく切れる。これらにより、椿がぽっかりと宙に浮かんでいるようだ。
掲句からは、加藤楸邨の〈寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃〉の句が思い起される。掲句も楸邨の句も、家の中で、風や雷といった自然現象によって鳴るガラスの音を聴いている。楸邨の句には、結社を立ち上げる決意が表れている。
掲句はどうか。作者の思いは見えない。しかし、とてもゆかしい。「家中」「硝子戸」という名詞が選ばれ、静かにおかれている。「鳴る」という動詞は、それ自体が柔らかく響いている。そして、軽やかに「椿かな」へと飛んでゆく。言葉が音楽を奏でている。(藤原智子)