夏の闇鶴を抱へてゆくごとく(句集未収録)

 大岡信の詩に次の一節がある。「〈深さ〉の感覚は闇としっくり合う。私がつねづね驚くのは、昼の光のもとで見慣れている土地が、夜の闇に包まれると、あやまりなく〈深さ〉の感覚をよみがえらせるという事実である。」(「接触と波動」『透視図法―夏のための』)
 夏の闇は、湿り気が多いため、他の季節に増して空気が膨らんだように感じられ、尚更に闇が深い。だからこそ、虚子が投げた金亀虫は闇に沈み込むように消えてゆき(〈金亀子擲つ闇の深さかな〉)、あやめもわかぬ闇の深さを感じさせる。
 この句は、こういう種類の奥行きの知れぬ闇の中に展開されるのだが、「鶴」という象徴性を帯びた鳥の登場によって、ただならぬ雰囲気が生じた。この句の主体が飼育員でもなければ、鶴を抱えてどこかへ運ぶことは実際には考えられない。「鶴を抱へてゆく」という行為自体がすでに普通でない。とすると、この句の鶴とはなにか。
 鶴は白く美しいものの象徴である。つまりは女性、ここでは恋人の比喩として解したい。鶴の化身のような、白くやわらかな女性を抱きかかえ、男が女を、暗闇の奥の愛の臥所へと運ぶ、おごそかにして幻想的なシーンとして読むことができる。夏の闇の中で発光する女体の白さが透視されてくるような一句である。(渡辺竜樹)
 
 白光の輪の中から少年が近づいてくる。少年の腕から出ようともがいている鶴は、くすんだ灰色だ。闇は漆黒、鶴は純白、その常識を覆すようなイメージがこの句にはある。抱きかかえられる鶴に、ゾッとするほどのエロチシズムを感じるが、少年も鶴も危なっかしい。
 ―小さいころから一頭の黒い獣を飼っている。―この書き出しで始まる小文は、1989年発行の「毎日グラフ」俳句特集号の「精鋭18人」と題した若手俳人紹介欄での、長谷川櫂自身のものである。そして自選句として〈冬深し柱の中の濤の音〉(『古志』)と掲句を掲げている。
 『長谷川櫂 自選五〇〇句』に収録されている青木亮人氏の「長谷川櫂論 黒い獣と花」でそのことを知った。闇が白で鶴は灰色という私のこの句へのイメージは、多分、この小文に影響を受けているのだろうと思う。
 繊細でありながら堂々と大きく広がる俳句の世界が、私の長谷川櫂だった。しかしこの小文も掲句も、今まで私が読んできた長谷川櫂とは全く異質だ。あまりにも剝き出しで不安定なのだ。
 『古志』を上梓して飴山實に師事し『天球』を出す間の句で、句集未収録であったが、『長谷川櫂 自選五〇〇句』では『天球』抄の最後に掲載されている。この句の置き処が作者には定まったのかもしれない。(きだりえこ)