「いまはの息」と言えば、臨終、死に際のかすかな息のこと。「花びらや」の花びらはどのような状態なのだろうか。最初に読んだ時は、散ったばかりの花びらだと思った。散ったばかりの花びらは瑞々しく美しい。ただ、生物的には枝を離れた時点で「死」を迎えている。「いまはの息のあるごとし」と「ごとし」で表現したのは、そのためであろう、と。
読み返していると、「花びらや」の花びらは、まだ枝にある花のことではないかと思うようになった。桜の花の儚さは、万人の感じているところであろう。咲いたと思ったら、もう散る気配だ。この散る気配の一瞬を「いまはの息のあるごとし」と表現したのではないだろうか。「ごとし」は、擬人化を感じさせる。「ごとし」を使わず、「花びらにいまはの息のありにけり」と一気に言ってもいいのではないかと思い、何度も口遊んだ。ただ、それだとメリハリがなく流れてしまうなと感じた。
「ごとし」を使うことで、「花びらや」に焦点が集まる。どのような状態であろうと「花びら」の本質がこの句の命だ。(木下洋子)
掲句は第一句集『古志』(1985年)の最初期の作品群Iに収録されている。II以降は読売新聞新潟支局勤務時代の句だから、Iの掲句は学生時代の作だろうか。
散りかけの桜の美しさを、「いまはの息のあるごとし」と鋭く形容する。花びらと「いまはの息」との間には大きな飛躍がある。切れ字の「や」がよく効き、「いまはの息」という表現によって、落花寸前の花びらのぎりぎりの緊張感・切迫感が示されている。西行の歌〈ねかはくは花のしたにて春しなんそのきさらきのもちつきのころ〉を踏まえて、作者の死生の美学が示されてもいる。「いまはの息」という珍しい形容を選びとったのは、少年時代か青年時代に、近親者の死を身近に経験したのだろうか。
熊本日日新聞の連載「故郷の肖像」のプロローグ、同郷の俳人・正木ゆう子さんとの往復書簡の第一信(2024年1月4日付け)で、〈子どものころ母方の祖父さんがある夜「この子は体の弱かけん、長う生きんばい」と母を慰めるのを聞いてしまってから、ずっと二十歳までに死ぬだろうと思っていた〉と作者は記している。早死への怖れのゆえに、死への独特の親近感、近しさの知覚が幼い頃から作者にはあったのかも知れない。(長谷川冬虹)