「渉る」は、さんずいに歩く、文字通り、水の中を歩くことを言う。水を渉る際に、水面に波紋が生まれた。ただそのことだけが詠まれている。
まず、斬新な表現。通常、「皺苦茶」になるのは、紙や布のような固体であって液体ではない。水面の波紋を「皺苦茶」と見立て、かつ切字「けり」を使って断定することで、新たな発見を示している。
次に、大胆な省略。水を渉る主体者は誰(あるいは、何)なのか、どこで、何のために渉っているのか。作者は、その主体者なのか、目撃者なのか。一切の説明は省かれ、余計な意味が削がれている。そのため、主体者は、水を「皺苦茶」にするため、水と戯れるためだけに、歩いているかのようでもある。
最後に、何故「春の水」なのか。他の季節でも、句は成り立つのか。水が「皺苦茶」になるのは一瞬で、すぐに元に戻る。水のやわらかさや、まるで生きているかのような動的なイメージは、やはり、命の息吹の季節である春でなければならないであろう。(田村史生)
『古志』は作者が二十代に詠んだ句をまとめた句集。その大半は新聞記者として赴任した新潟、とくに小千谷で詠まれた句というから、掲句は小千谷のどこか野原を流れる小川だろう。雪国の厳しい冬には山の上にたくさんの雪が蓄えられ、春の温かさとともに水となって地や川に解放される。雪解けの清冽な水が流れる春の川は心が弾む。
その春の小川を作者は一気に渉った。水量と勢いを増した川の水は進むごとに足にぶつかり、流れはどんどん複雑に変化してゆく。「皺苦茶」とはなんと愉快で若々しい表現だろう。渉りきったことで川の水との勝負に打ち勝ったような、そんな高揚感も伝わってくる。
郷里の熊本を離れ、大学生活を過ごした東京を離れ、雪国新潟で迎えた春は、冬を越した作者に自信を授けた。雪に阻まれ止まっていた物事が一斉に動き出すような期待も抱いたに違いない。この十七音からは空の色や野原の様子、風の気配や陽射しの強さまでもが伝わり、春を迎えた悦びに溢れた一句となった。(髙橋真樹子)