落椿の蕊のなかから、蜜をむさぼったものの顔があらわれる。その口は金色の花粉にまみれている。蜂か虻のたぐいであろうか。
椿は虫や鳥を媒介して受粉を行う。椿のような植物の生命において、おそらく受粉(送粉)は、最も重要な営みであろう。椿は、その花粉の媒介者をまねきよせるために、多量の蜜を分泌して、甘い匂いを漂わせる。それだけなく、椿のあざやかな花弁の色もまた、この媒介者に容易に気づかれるためだとも言われる。
この句の椿は、蜜を吸われているさなかに落ちたのかもしれない。虫は椿の花もろとも地面に落ち、驚いて顔を出したのだ。まるで一心不乱にご馳走をたいらげたあとのような、至福の表情を浮かべているかのようである。まさに待ちにまった春のよろこびそのものであろう。(関根千方)
なんと可愛い俳句だろう。「口ぢゆうを金粉にして」という措辞からは小さい子がぼた餅を頬張ってそのおちょぼ口がきな粉まみれになった様子を想像してしまう。
しかし、実際には花弁が花粉まみれになることはないし、作者は「花粉」ではなく「金粉」と詠んでいる。作者は『長谷川櫂 自選五〇〇句』で「どの言葉も、ものの姿を写す描写と心の動きを表す表現という二つの働きをも」ち、その二つが調和してこそ詩が生まれると述べている。そして、掲句は「表現」に比重を置き、落椿を見たときの心の動き、印象、残像を詠んでいるのだ。花弁中央の雄しべの金色が作者の頭の中ではクローズアップされ、まるで金屛風のような輝きを放つ。落椿の雄しべが作り出す空気感に作者の心が揺らぎ、そこから言葉が生まれ掲句となった。
作者は落椿そのものを詠もうとしたのでなく、肉厚の赤い花弁と王冠のような雄しべの醸し出す緊迫した空気感を詠んだのだ。(齋藤嘉子)