誰もまだ触れてはをらぬ桃一つ『太陽の門』

 日本人にとって、花といえば桜だが、果実といえば桃なのかもしれない。
 桃は、色、形、香り、味、どれもが優美だ。そして、したたる果汁、ひんやりと柔らかな果肉、大きな種がある。
 手に取って見ることのできない命というものに、もし形があるのなら、桃のような姿なのではないか。
 「触れてはをらぬ」は、目の前にある一つのうつくしい桃に対する畏れであり、生き物が一つずつ抱えている命に対する畏れであろう。(藤原智子)

 食卓の上だろうか、セザンヌの静物画のように桃が一つ置かれている。叙景としてはそれだけである。それで叙情を感じるのは、「誰もまだ触れてはをらぬ」という言葉の力による。誰もが知っている通り、桃は非常に繊細な果物であり、少し触れただけでも傷んでしまう。つまり、触れてはならぬほど繊細な、弱い果実がぽつんと置かれている。
 桃の節句や童話「桃太郎」のように、桃は女性や母性を連想させる。掲句の桃も女性を象徴していると考えられる。どのような女性だろうか。〈いちまいの皮の包める熟柿かな〉(野見山朱鳥)の熟柿と異なり、これから熟して食べ頃になるのを待っている状態の桃とすれば、この桃はまだ、男性に触れられていない若い女性の象徴と考えられよう。その上で、この桃を大事に見守っている人たちの姿にも思いが及ぶ。
 桃は櫂の句によく登場する。『長谷川櫂 自選五〇〇句』が四句、『太陽の門』は掲句を含めて七句を所収しており、二つ後には〈白桃や命はるかと思ひしに〉がある。ここではいまにも崩れそうな白桃が、命の儚さを象徴しているようだ。(臼杵政治)