新涼や怒濤のごとく山又山『太陽の門』

 なんとダイナミックな句だろう。
 仮に「怒濤のごとく山又山」を常識で解釈しようとすると「山を覆う木々の枝が揺れて、それがまるで怒濤のようだ」となるのではないか。
 それは散文的な解釈だ。作者は「目の前の動くはずのない山々が、怒濤のごとくこちらへ押し寄せてくる」と詠んでいるのである。
 「山また山」ではなく「山又山」としたのは視覚的な効果を狙ってのことだろう。「山」そのものが次々にこちらに迫って来るような印象を与える。象形文字の力である。
 まさに新たな涼しさである。(村松二本)
                       
 掲句はなんともミニマルな光景である。ここには「山」しかない。この句の前に浅間山を詠んだ三句が置かれているが、掲句も一連の作品と思われる。
 『富士』(2009年)には〈雲海の怒濤の砕け散るところ〉〈白団扇夜の奥より怒濤かな〉など「怒濤」を使った句が四句もある。いずれの「怒濤」もどこか明るく健やかでさえある。対して掲句の「怒濤」は全く違う余韻で空恐ろしい気配である。
 聖書詩篇に「われ山に向かいて目をあぐ、わが扶助はいずこより来るや」という詩句がある。眼前にどんと構える大きな姿に人は自ずと己に向き合い、心を澄ますのではなかろうか。山は屛風のように我々を取り巻き、行く手に立ち塞がり視界を限る。しかし同時に一つの山はその向こうに又山々が連なっている。
 作者はこの世界は無限であると確信したに違いない。「新涼や」と心地いい肌感で切りこみ、下五にどっしりと「山又山」を据えて確信したその思いを言い切っている。極限までなされた省略の中で自身を開放しているのだ。(谷村和華子)