八月の真ん中で泣く赤ん坊『太陽の門』

 声に出して読むと散文のようだ。いかにもハイクテキに、〈八月の真中で泣くや赤ん坊〉と「や」を入れ、滑りよくしたいと思ってしまう。八月の真ん中?そもそも八月に真ん中なんてあるのか?ひょっとしたら8月15日の日本の敗戦日のことかと、安易に解釈してしまう。
 八月は死者と生者の行きかう月。六月の沖縄忌から始まり、広島、長崎の原爆忌、敗戦忌、そして盂蘭盆会と、生者が死者を悼む季語が続く。そんな八月に生者を代表して大きな声で赤ん坊が泣いている。
 しかしこの句は、生半可な私の鑑賞を弾きとばす、力強くて手強いと直観が囁く、心がざわざわする。なんなんだ。
 長谷川櫂は自書『長谷川櫂 自選五〇〇句』でこう述べている。「俳句は言葉の意味を連ねて説明するより、言葉の風味を醸し出す文学」
 掲句に心がざわめいたのは、この句の言葉が醸し出す風味ではないだろうか。現在地球上のたくさんの戦場であがるおびただしい赤ん坊の声、生まれ落ちて直ぐに殺められる赤ん坊の声が、この句から聞こえてくるからかもしれない。(きだりえこ)

 「緑児」ということばがある。普通、「みどりご」と読むが、古くは「みどりこ」と読んで、生まれてから三歳になるまでの子どものことを指し、生命力が溢れたこの時期を、木々の緑の瑞々しい成長と重ねて呼ぶようになった。
 しかし赤ん坊は、どんなに元気であっても、誰かの手を借りないと生きられない弱い存在である。泣くことで他者に自分の存在を知らせ、何かを与えられることで生きている。泣き声が言葉以上に欲求を伝達する。
 だからであろう、赤ん坊が泣いていると、不安になる。人間の赤裸々な姿をそこにみるからだろうか。人間は理性によって、感情を制御し社会を発展させてきたといえるが、赤ん坊は本能のままに喚き、人間本来の姿を思い起こさせる。
 八月ともなれば緑も濃くなり、振り絞るように鳴く蝉の声とともに太陽が照りつけ、生命の極みに至った気配が満ち、却って万物が死に絶えたかのように寂莫とした感じさえする。季節は秋に入ったことを知る。
 この句、そんな八月、誰もいなくなったような静けさの中に、泣き続ける赤ん坊を描いた。孤独な人間という存在を深淵から泣訴するようだ。この八月を昭和二十年の八月と限定してもよい。句集には〈八月や一日一日が戦の忌〉という句も収録されているから、八月は季節としての八月のみならず、戦争の重みをもった八月として立ち現われてくる。終戦という現実に直面した日本人の声にならぬ叫びを、奔放に泣く赤ん坊の泣き声に託すかのようだ。戦争に引き摺られ、この世に置き去りにされたも同然の、孤児(みなしご)としての人間の、心の叫びの象徴として赤ん坊の泣き声が谺する。(渡辺竜樹)