もの一つその音一つけさの秋『太陽の門』

 単純明快。ものが一つあり、その音が一つある。そしてそれは立秋。こんな当たり前のことだが、あらためて目の前に置かれるとはっとする。しかしこの句をよく見ているとおかしな感じがしてくる。ただものがあるだけでは音はしないのだ。この句の作者は音を聞いてはいない、つまり眼前のものの音をこころで感じているということが分かる。
 気になるのはこの「もの」は何なのかということ。そしてなぜ具体的なものを示さなかったのかということ。一般には具体的なものを示すと句に広がりがなくなるなどとも言われる。しかしはたしてそれは本当か。作者は逆に読み手に想像を許さぬために「もの」と措いたような気がする。
 この句の一見単純な作りの背景には静かさが広がっている。そういう一句に作者が措いた「もの」を読み手は想像する。しかもその「もの」とは「音」そのものでなくてはならないのだ。読み手は想像力の限りを使う。おのずともうその「もの」は読み手が勝手に想像していいものではなくなってしまっている。どのようにも想像を許すと思われたこの一句を前にして、こころは完全に身動きが取れなくなってしまっている。
 この句は句集『太陽の門』の第Ⅱ章の一句目にある。歌仙なら発句である。この句の後には戦争の句が三句続く。そしてその後には作者自身の病気、手術の句も出てくる。やがて第Ⅱ章は〈大宇宙の沈黙をきく冬木あり〉で締めくくられる。まるで挙句のように。第Ⅱ章を通して読むと作者自身の病気や戦争さえも些細な出来事であると言わんばかりに発句と挙句が宇宙の果てと果てで呼び交しているように感じられる。(三玉一郎)

 一見、抽象の塊である。「もの」とは何か、「その音」とは一体どんな音なのか、具体的には何も示されていない。「けさの秋」に形があるわけでもない。にもかかわらず、ゆっくりと読んでみると、「もの」が目に見え、「音」が聴こえてくる。それは読み手である私たちの心の中の「もの」「音」である。ときに木の実であり、風鈴であるかもしれない。確かなことは、心に浮かぶ「もの」は決して抽象ではなく、手触りのある何かだということである。
 「けさの秋」は「立秋」の傍題。〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〉(藤原敏行『古今和歌集』秋上169)の名歌があり、立秋は聴覚で捉えるという伝統がある。掲句はその伝統を踏まえている。
 さて、作者はなぜ木の実や風鈴といった具体物を出さず、極めて抽象的な表現を選んだのだろうか。愚見だが、伝統の世界へたゆたう自由な心の旅の中で、辿り着いた一つの地点がこの抽象化された聴覚表現なのではあるまいか。仮に「もの」を具体化していたら、現実の木の実や風鈴の音でしかなくなってしまう。つまり、和歌の伝統の縮小に過ぎなくなる。一方、「もの」は何にでもなれるのだから、いくらでも広がることが可能だ。広がりの中で私たちは今ここにあるものの姿だけでなく、ありし日の風の音まで感じることができる。
 伝統は決して私たちを束縛するものでも不自由なものでもない。伝統があるからこそ広がる言葉がある。(イーブン美奈子)