本句集の掲句の一つ前の句は〈ふるさとは入道雲の湧くところ〉である。まるでクレヨンで描いたかのような色鮮やかな「ふるさと」が目に浮かぶ。そして掲句へと続く。「雲の峰」と、その大きな景の中に飛び込むような大胆な切り出し方である。生命力のみならず、いつ雷光や雷鳴がもたらされるやも知れぬ一触即発のような緊張感も漂う。
作者は「雲の峰」の向こうに何を見ているのであろう。己の志であろうか。姿であろうか。それとも自戒であろうか。それに対して、あとはただ「ふるさと今もあるごとく」と、一気に思いを詠み下している。この止め方には大きく穏やかな落ち着きがある。「ふるさと」は、ときに鼓舞してくれる存在なのだ。安堵感すら伝わる。
本句集には〈教室を草原と思ふ昼寝かな〉という中学生の頃の句も収められている。「ふるさと」に(経験のないことを経験したように感じる)既視感を抱いているかのような句だ。その少年の感覚が「今もあるごとく」という掲句にも脈々と流れている。
当時五十代半ばの作者、来し方行く末を思った時、既にこの世にない「ふるさと」のあの「雲の峰」が…。掲句は必然として生まれたに違いない。(谷村和華子)
「ふるさと」はすでにない。しかし湧き起こる「雲の峰」を眺めていると「ふるさと」が心の中に「今もあるごとく」蘇るというのだ。
「ふるさと」とは何を指すのだろう。
目の前の現実は次々に過去へと消えてゆく。幼い頃を共に過ごした人々の中には再び会うことのできない者もいる。会うことはできても当時とは随分印象の異なる人もいるのは致し方のないことだ。もちろんこの句の主人公自身も「ふるさと」に暮らしていたころとは大きく変わっているに違いない。人々に限らず、食べ物や電化製品など身の回りの暮らしそのものも変わってしまった。
魯迅の小説『故郷』では変わり果てた故郷が描かれる。現実の故郷とは対照的に、少年「ルントウ」に象徴される美しい故郷は今も主人公の思い出の中に存在している。
ところで、この句は「ごとく」と結んでいる。恐らく近年の作者であれば「雲の峰」の奥に「ふるさと」が「今もある」と言い切ると思うのだがいかがだろうか。(村松二本)