山々に桜が点在している様を「浮きつ沈みつ」と表したことで、桜を含めた山肌が波打って迫りくるような躍動感に満ちている。中七における「つ」の繰り返しが心地よい調べとなり、山々を連なりとして横に縦に視線を躍らせる動きをなぞる。
この繰り返しが生む調べと眼差しの軌跡を考えていて、詩経の「桃夭」を思い出した。
桃之夭夭/灼灼其華/之子于帰/宜其室家
桃之夭夭/有蕡其実/之子于帰/宜其家室
桃之夭夭/其葉蓁蓁/之子于帰/宜其家人
四言詩形態で桃の花・実・葉の瑞々しさを若き花嫁に重ね合わせて詠んでいる。繰り返される「夭夭」は季節を超えて生を讃える。
掲句の「浮きつ沈みつ」もまた、山ごとの点在の様子だけでなく、その映像に時間的奥行きを与える効果がある。桜を詠みつつ春にとどまらず、季節を超越している。(市川きつね)
作者の第九句集『富士』のなかの一句である。当時のインタビュー記事にて、作者は、「ごく単純な普通の言葉で世界の不思議さをとらえる」ということを述べている。
掲句もまた、言葉としては、山と、桜と、「浮きつ沈みつ」という慣用的な表現のみである。それでも凡庸な句とならないのは、その言葉の置き方による。「山はみな」で、まず山々の姿が浮かぶ。次に、その山々が「浮きつ沈みつ」とはどういうことか、一瞬疑問が生まれるが、「桜かな」で、山々を覆う山桜の美しい景色が現れ、一気にその謎が解ける。山桜は、花とともに若葉が同時に開き、また、周囲の木々が一斉に開花するわけではないので、まるで「浮きつ沈みつ」しているような濃淡が、そこに生まれるのだ。
さらに、切字「かな」の効果もあり、この景色は、作者の目の前ではなく、心のなかに広がっているようにも感じられる。平易な言葉を使っているからこそ、作者の心の働きが、読み手の心にも伝わるのである。(田村史生)