「投げ入れてある椿」だけでは、壺をはみ出すように活けられた大ぶりの枝を詠んだにすぎないが、「乾坤に」とくれば、途端に大きな景となる。この椿は「投げ入れて」の措辞から崖の岩に根を絡ませ海に突き出している大木であることが想像できる。
掲句は句集『富士』(2009年)と『吉野』(2014年)に入集。熱海伊豆山にあった旅館・蓬萊の露天風呂から相模湾を見下ろし、自然と一体となり、ぼーっと心を遊ばせていた時、この椿の木が目に留まりこの句を詠んだ。
乾坤に椿を投げ入れたのは誰か。地球を造り、人類を誕生させたのと同じ力だ。すべては偶然のなせる技。アフリカ大陸から全世界に散らばっていった人類だが、家族が、友人がいようといまいと、結局はひとりで生まれ死んでいく。
崖から海へ幹を突き出し、風雨と戦う椿の木は、ひとりの人間の存在そのものを具現化して見せている。この句からそこはかとない奥深さと強さを感じるのはそのためである。(齋藤嘉子)
掲句は、かつて熱海にあった旅館「蓬萊」にかかわる旅の句集『富士』(2009年)の三句目である。劈頭に春の富士〈天上を吹く春風に富士はあり〉、二句目は作者を歓迎するかのように鶯が啼き〈鶯や一つ大きく明らかに〉、続いていよいよ玄関で、投げ入れの椿が出迎えるという趣向だ。
「投げ入れてある」の「ある」に注視したい。讃えられているのは表面的には椿だが、畏敬の真の対象は、宿の主のもてなし、心遣いであり、それに対する挨拶句ではないだろうか。今日この宿がまず迎えてくれたのは椿ですね、というわけだ。四句目は〈花あまた枝に重たき椿かな〉。庭から、花や蕾のたくさん付いた数本の枝を惜しげもなく切り出してきて投げ入れされた見事な椿だったのだろう。〈湯に落ちて岩を流るる椿かな〉をはじめ、この句集には椿の句が七句もある。宿の丹精や美質を象徴するものが椿だったと解することができる。
「乾坤に」は一見やや大げさな措辞だが、伊豆山の麓にあり、海を眺められる「蓬萊」そのものを、まさに乾坤の間に位置する宿として讃えたのだろう。〈乾坤をめぐりめぐるや秋の声〉も、字面では、季節が一回りしてまた秋になったの意だが、この宿のそこかしこから、さまざまの秋の声や秋の音が聞こえてくると読むことができる。(長谷川冬虹)