作者に対して私は、ずっと恐いイメージを持ってきた。句会などで直接浴びる眼光や発せられる言葉に私は、雨に濡れぶるぶる震えるさながら小鳥のようだ。しかし、句会後その言葉を反芻し深く頷く自分がいる。前置きが長くなったが、句の鑑賞を通してその裡なるものを掘り起こしたい。
掲句は、句集『富士』(2009年)の巻頭に据えてある。明るく大らかで、読者を展けた世界へと誘い出してくれる。上五「天上を」は、単にそらのうえというより神々の住む領域天界なのではなかろうか。遠くて近い、近くて遠い霊峰「富士」。それは無の世界と化し、もはや作者と一体化しているのだ。
下五「あり」に充足した思いが伝わる。作者の心の裡には常に心象風景としての「富士」があるのではないだろうか。すっきりと高潔で微妙に左右不対称な日本の美。左右不対称により生まれる余白の涼しさ。読み深めていくと、とてつもなく静謐な句であることに気づいた。(谷村和華子)
今更申し上げるまでもなく俳句は韻文である。散文とは目的が異なる。散文の目的は正しく意味を伝えることにある。確かな情報の伝達だ。では韻文の目的は何か。それは一言で言えば表現だ。ゴッホがカンバスと絵の具を用いて現実をはるかに超えた向日葵を描いたように、俳句を詠む者は言葉を駆使して意味を超越した何ごとかを表現しようとする。
掲句はそんな心構えで「富士」を描いている。「天上を吹く春風に富士」がある。日常の散文ではこのような言い方は避ける。それは分かりにくいからだ。しかし作者はそんなことは意に介さない。「富士」がまるで重力から解き放たれたように、地上から切り離された「天上を吹く春風」に存在すると敢えて言い表している。つまりこの表現によって現実を打ち破っているのだ。
筆者の茅屋にはこの句の短冊が掛けてある。作句や選句の際の戒めの一句となっている。(村松二本)