今、はっきりと鶯の囀る声が聞こえた。鶯の姿は、作者には見えていない。しかし、「一つ大きく明らかに」囀る声によって、鶯の姿が作者の心に浮かんだ。「鶯や」の「や」が句を大きく深く切っている。「一つ大きく明らかに」は現実の世界で、「鶯や」の鶯は作者の心の世界だ。
『松島』に次ぐ旅の句集『富士』所収。『富士』の冒頭におかれているのは、〈天上を吹く春風に富士はあり〉。続く二句目がこの句だ。三句目は、〈乾坤に投げ入れてある椿かな〉。富士を直接詠んでいるのは一句目だけだが、二句目、三句目と富士を囃すようにおかれている。掲句は、鶯を描写した句でありながら、富士を表現した句である。(藤原智子)
言うまでもなく、掲句の題材は鶯の声である。ほうほうほけきょと大きくて明瞭な鳴き声が聞こえ、その後しばらくは静寂が続く。声の主である鶯の姿はない。
鶯は古くから日本の詩歌で詠われてきた春の季題である。しかし、よく詠まれる季題であるため佳句を作るのは容易ではない。類句、類想の可能性を避けられないからである。これまでにない句を作ろうとして材料を入れ込むと、季語の持つ詩情を損なったりする。
そんな迷いもなく、鶯の声を正面からゆったり取り上げたのが掲句である。鶯の声を大きく確りと描写し、言祝ぐことで、読者には良い声が聞こえるだけでなく、鶯の姿さえ見えてきそうだ。
『折々のうた』選俳句(一)で大岡信は〈木枯の一日吹いて居りにけり〉(岩田涼菟)を「俳句というものがどこまで表現を単純化できるかを示す好例」とした。また、作者の最近の句に〈けさ一つはるかな空に雲の峰〉(鎌倉zoom句会)がある。掲句を含め、どれも余計な措辞を削ぎ落とすことで、季語が持つ詩情をよく発揮させている。(臼杵政治)