一見、説明的である。「ため」の前後関係は目的と手段になるからだ。にもかかわらず、なぜ「ため」をわざわざ使ったのか。
既刊の作者の句集から「ため」の用例を拾ってみたところ、掲句を除き6句が見つかった。列挙すると〈誰のため椅子出してある夏柳〉〈母のため低く作れり豆の棚〉〈妻のため秋の扇を選びをり〉〈花の旅一人となりし母のため〉〈愚かなる一人のための除夜の鐘〉〈美しきオルガのための秋の歌〉。
わかることは、どれも「誰かのため」だということだ。自分のためではない。ならば、掲句の「雑煮餅」も誰かのためのものなのではないか。
掲句は、句集『新年』の2005年の作品。巻頭は〈ずたずたの大地に我ら去年今年〉だ。前年10月に新潟県中越地震、12月にスマトラ沖地震が発生している。「雑煮餅」は、その「ずたずたの大地」に生きる全ての人間のためなのかもしれない。
ここでは、切れ字の「や」が前後を切り離す大きな働きをしている。「雑煮餅」を食べる人と「闘ふ」人は、必ずしもイコールでなくてもいいのだ。(イーブン美奈子)
人間は自分ができないこと、足りないことこそ強く意識するものだ。作者にはいつも闘っている印象がある。だから「闘ふ」ことをそんなに強く意識する必要があるのか、と思ってしまう。しかしそれは裏を返せば、いかに「闘ふ」作者であっても一年に一度、自分に言い聞かせなければならないほど強い相手だということにもなる。
作者は芝居がかったことが嫌いだ。話の端々からそれが感じられる。また俳句にそのような要素が入ることも嫌っている。だがしかしこの句はすこし芝居がかっているようにも感じられる。読んだ人にそう感じさせてしまう、そんな恐れがあっても俳句にしなければならないほど強い相手なのだろう。「闘ふ」と宣言しなければ自分が倒れてしまうほどの。
では、それほどの「闘ふ」相手とは一体何者だろうか。意外にもそれは「闘ふ」ことを高らかに宣言した俳句そのものではないか、私にはそんな気がするのだ。作者は俳句の可能性を信じ、一生を懸けるに値するものだと考えている。そんな作者が一番恐れるのは俳句そのものの堕落だ。その俳句の堕落を招かないためにいま俳人がなすべきことは何か。それは俳句を高めること。しかし一体どうやって。そうだ、よい俳句を詠むことだ。作者はこうやって一年に一度、自分が信じる俳句に対して誓いを立てているのだ。(三玉一郎)