作者の第八句集『新年』の冒頭に置かれた句である。新年の句、しかも句集の冒頭句でありながら「ずたずた」とは穏やかではない。この句が作られたのが2005年であることから、まず想起されるのは、2004年10月に起きた新潟地震である。新潟は作者にとって縁深い土地。「我ら」からは、第三者としての客観性ではなく、作者自身も被災地に立っているような、切実な当事者意識が感じられる。そして、「去年今年」である。理不尽とも言える災害に巻き込まれても、いつもと同じように時間は過ぎ、新しい年はやってくる。それは、非情でもあり、ある意味救いでもある。
仮に「大地」を「地球」に置き換えれば、「我ら」は人類であり、さらには、この星に生きとし生けるもの全てともいえるだろう。我らは自然の前では小さな存在であるが、それでも、日々生きていかなければならない。厳しさのなかにも、生きる覚悟、ひいては生きる希望を感じさせる、普遍的な一句である。(田村史生)
なんともスケールの大きい句である。「ずたずたの大地」も「我ら」も、範囲がどこまでも限定できない点で共通している。
「大地」という言葉は人工物の混じっていない土そのものの地面を想起させる。日頃、大地の上に住んでいることを意識している人間がどれだけいるだろう。都会であれば地面はアスファルト、コンクリートで舗装され、土が露出しているところなどほとんどない。人間は人間の作り上げたものの上で生活しているつもりでいる。
しかし、どんなに強固に見えても、それらは戦争や天変地異などの災いで簡単に壊れてしまう。そして「大地」がさらけ出される。掲句を読んだことで真っ先に思いつく災害は、読者にとって一番影響が大きいものであるのかもしれない。「大地」を人間の経済活動が引き起こす環境破壊で疲弊した地球と捉えることも可能だ。
「我ら」は地球に生きるすべての人間を包括する。生きている限り誰もが何時どんな災害に見舞われるのか分からない。何が起ころうと人間は生きる営みを続けていかねばならない。時間は決して止まるものではないからだ。そのようなメッセージを、作者は「去年今年」という季語に込めたのではないか。(市川きつね)