俳句をやらない人にとっては、この句はただ事に思えるかもしれない。七輪で焼いた茄子が火に包まれて丸焦げになった。それだけである。
しかしこの句が素晴らしいのは、句意が明瞭でどの世代の読者にも伝わるところだ。
七輪といえば、そこで秋刀魚や餅などを焼くものだと思われるが、はたして実物を使ったことのある人がどれだけいるだろうか。私自身、七輪の使われる場面はテレビで見たことしかない。その程度のぼんやりした認識でも、作者の詠んだ景を一瞬で思い浮かべることができる。
「茄子」は晩夏の季語。暑い季節にわざわざ七輪を出すのだから、そこで焼く食材はとっておきのものであることがうかがわれる。作者にとってこの茄子は特別なのだ。にもかかわらず、茄子は七輪の上で燃え上がり、作者はそれを口にすることができなかった。
燃え上がる茄子とは対照的に、その様を句にせんとする作者の視線は、もはや悔恨や悲しみなどとは無縁で、芥川龍之介の短編『地獄変』の絵師良秀のように冷徹そのものではなかっただろうか。(市川きつね)
茄子を丸ごと七輪で焼く。ちりちりという音とともに、茄子の色が変わっていき、やがて香ばしい匂いが漂うなかで、茄子は真黒に焼き上がる。熱々の皮を剥けば中は柔らかく、絶品の焼き茄子が出来上がる。五感全てが刺激されるこの贅沢とも言える過程が、掲句では大胆に省略されている。
切字「けり」には、単に物事が起こっただけではなく、起こったことに今気が付いた、という意味合いがある。気が付くと、七輪の上の茄子が炎となっていたというのだ。シンプルな句形に、七輪、茄子、炎の三語を置いただけであるが、この思い切りのよさが、読者の想像力を促して効果的である。また、炎という言葉が、まるで原始から続く人間の営みとしての調理を想起させ、その無骨さや大らかさもまた、掲句の魅力であろう。
作者には、同じ焼き茄子を題材とした、〈真黒に茄子焦したる涼しさよ〉(『富士』)、〈茄子ひとつ昔のままに焦がしけり〉(『沖縄』)の句もある。(田村史生)