桃食ふや冷たき水を浴びてきて『蓬萊』

 櫂が仕事を終え、白桃を冷蔵庫に入れ、冷たいシャワーを浴びた後、程よく冷えた白桃の皮を指で剥き、かぶりつく。果汁が手にも顎にも滴り落ちる。これが掲句の出来た実の世界だ。
 しかし、全く違う場面も想像できる。盆休みで久しぶりに青年達が滝壺近くの河原に集まり、川遊びを楽しんでいる。石で囲った窪みにはビール、胡瓜、トマトそして桃が冷やされ、焚火の回りには串刺しの岩魚や鮎が炙られている。ひとしきり川で遊んだ後、焚火の回りに集まり、まず桃にかぶりつく。中には皮ごと食べる者もいる。青年のひとりが丹精して作った桃を仲間のために持ってきたのかもしれない。
 「桃食ふや」の語句の勢いから、桃を食べるのが待ちきれない気持ちを、さらに「冷たき水を浴びてきて」の言葉から、若さを想起させる。
 日常の言葉で作られていながら、室内の実の世界から、初秋の緑溢れる戸外の、一人でなく数人の仲間達の虚の世界まで、読者に想像させる句だ。(齋藤嘉子)

 句意は一見とてもシンプルだ。まだ暑い日、水泳のあとなのか、冷たいシャワーを浴びたあとに、好物の桃を囓っている。健康な欲望を素朴に肯定している句にも思える。
 掲句は第四句集『蓬萊』所収。1997年か98年頃の作か、読売新聞大阪本社から東京本社に戻って以降の句である。
 『蓬萊』を上梓したのは2000年12月だが、その4ヶ月前に作者は22年間勤務した読売新聞社を退社し、俳句に専念することにした。続く第五句集『虚空』には、〈職捨ててすつきりしたる団扇かな〉〈我あらぬ職場をおもふ夜の秋〉の句がある。「夜の秋」の三句あとには、〈水かぶりては原稿に対ひけり〉の句がある。作者には気分転換に、あるいは、執筆にあたって気合を入れ直すために、水を浴びる習慣があるのだろう。
 こういうコンテクストの中に置いて掲句を読み直すと、俳句への決意、専心に向かう決意の句と見えてくる。掲句の本意は、俗事や忙事を忘れて、文学の世界に専心すべく、あらためて「気合を入れ直す」ということにこそあるのではないか。ここでは「桃」は文学や俳諧の象徴と捉えるべきだろう。(長谷川冬虹)