昼寝の夢の中で、アダムとイヴの世界に迷い込んできたかのようだ。深読みすれば、楽園を追放された先が昼寝覚のこの現世なのだとも解釈できるが、単に、そこにいちじくの木があって青々と陰を作っていたと素直に読んだ方が清々しい。
ところで掲句は、句集『果実』の配列において異質である。というのは、「西国篇」と題されたいかにも日本らしい風情の句群中、突如、西洋画を思わせるモチーフが登場しているからだ。
しかし、不思議と自然に収まっており、違和感はない。なるほど、これを「和」というのだ。作者の著書『和の思想』によると、本来の和とは、異質のものを共存・融合させる力のこと。中公新書版の『和の思想』は2009年刊行だが、句集『果実』は1996年であり、和の着想は論をまとめるずっと前から持ってきたものなのだろう。
なお、掲句の少し後に〈マチスの桃セザンヌの青いちじく〉もある。上出来の句かどうかはともあれ、これも和への挑戦ではなかろうか。(イーブン美奈子)
思い出そうとしてみた。昼寝から目覚めた時、どんなことを感じたか。うまく思い出せなかったが、ひとつだけ言えることがある。昼寝から覚める、こんな楽しい瞬間があるだろうか、と言うことだ。
完全に覚醒している時間と完全に眠っている時間、これは1か0だからどんなものかまあ想像がつく。唐突だが、男と女、善と悪、生と死、これらもしかり。実感したり、想像したりすることはできる。でもこの世の中、現実にはそのどちらでもないことも多々あるし、むしろ1と0、その間の方が大切じゃないかという気もする。私たちのこころが元来そういうものだからかもしれない。そして人間はこころの生き物だから。
「昼寝覚」はまさにその1でも0でもないぼんやりした状態。男でも女でも、善でも悪でも、生でも死でもない。昼寝中を胎児、昼寝から覚醒した状態を物心ついた状態とすれば、「昼寝覚」はまさにその間の時間だと言える。この句ではその場所が生命の象徴とも考えられる「いちじく」の木の下だと詠んでいる。母なる「いちじく」の木に守られて、いいことも悪いことも含めて物心がつくまでのぼんやりとした時間、卵子から人間になるまでの朦朧とした時間を追体験できる。人類が誕生した時もこんな感じだっただろうか。だから「昼寝覚」はこんなに楽しい。(三玉一郎)