「一丁の艪で漕ぐ舟」を「涼し」と捉えている作者はどこにいるのか。一幅の絵の前だろうか。浜辺に立ち沖の舟を見ているのか。いや艪を操っているのは作者かもしれない。
「涼し」は夏の季語。心と体で感じる季節感。天と地の間にすっと体を入れ、深く息を吸い力を抜く。ふっと心と体が軽くなる。「涼し」とはそんな心身のありようを言う。
掲句の掲載されている『果実』上梓の三年前、作者は俳句結社「古志」を立ち上げた。掲句はその時の心を詠っているのだろうか。それだけではない気がする。結社立ち上げは、俳句の世界、もっと大きく文学の世界への挑戦の通過点だろう。文学の広い海へ、一丁の艪で行く姿を「涼し」と表現した。
大きなことへ挑戦する時の心身を「涼し」とするのは容易なことではない。覚悟が必要であり、なおかつその覚悟を重く感じさせない力量が必要である。背筋を伸ばし遥かを見ている人の「涼しさ」。掲句は読む者の心を潑剌とさせてくれる爽やかで楽しい句だ。(きだりえこ)
「涼しさ」を詠んだ句は数多ある。「涼しさ」とは何か。暑苦しい余分なものをそぎ落とし、そぎ落としてゆくと「涼しさ」に至る。小舟を、一丁の艪で漕いでいる。ぎいと艪で漕ぐ音が聞こえるのみ。水面を渡る風の「涼しさ」が伝わってくる。視覚、聴覚、触覚で「涼しさ」を表現している。一幅の水墨画のようでもある。
ここで一つ疑問がわく。ここまでそぎ落としたのなら下五の「涼しさよ」もいらないのではないか。「一丁の艪で漕ぐ舟」だけで、充分「涼しさ」は伝わってくる。「〇〇で〇〇する楽しさよ」とか下五で感情を際立たせる句は私自身も作ってきた。この下五は言わなくても表現できるのではないかと自問自答して推敲するが正直、わからなくなる。
繰り返し読んで、やはりこの下五は必要だと思えるとすっきりする。この句の「涼しさよ」は繰り返し読んでもその「涼しさ」の格別感は動かなかった。「涼しさ」を極めた一句だと感じた。(木下洋子)