灯のいろを踏めば氷や鬼やらひ『天球』

 やらわれて逃げて行く鬼が灯りらしきものを踏むと、それは灯りを反射している氷だった。掲句の基本的な含意はこうだろう。
 『長谷川櫂全句集』(2008年)の季題別索引を見ると、第二句集『天球』(1992年)は氷の句を17句も収録している。掲句は追儺の句であり、季題「氷」には含まれていないが、この句の不思議な魅力は氷にこそある。新潟時代を含む第一句集『古志』(1985年)は雪の句が目立つが、氷の句が多いことは『天球』の大きな特色だ。氷のすきとおる冷たさは、作者の美学の一面でもある。
 雪も氷も、天空とこの地上とを媒介する。やらわれた鬼は、氷を踏んでどこへ向かったのだろうか。その行き先は天球の彼方と解したい。
 『天球』初版本は〈青空の映れる水に針魚みゆ〉で始まり(合本版と全句集版では二句目に置かれている)、そして掲句で終わる。評者には、青空を映している水中を覗くと針魚が見えたという、《天球から現在地へ》という句と、《現在地から天球へ》と向かう「鬼やらひ」の句とは呼応しているように思われてならない。こう理解することで、掲句が句集の終尾に置かれている必然性が感得できよう。
 作者は合本『古志・天球』(1995年)のあとがきで、天球を「地上に立つ人から見た無限に広がる天空を指す」と自解している。第二句集で獲得した、現在地から見える無限の天空という視座は、作者のその後の句作りの基本軸の一つと言える。タイトルに着目しても、第五句集の『虚空』(2002年)へ、さらには『太陽の門』(2021年)へと続く。(長谷川冬虹)

 灯りのついた家々から「鬼は外、福は内」の声が聞こえる。氷った水たまりに家の灯りが映る。その氷をやらわれた鬼が踏んでしまう。しかし、この句の鬼は面を付けた鬼役の人ではない。力ある者から疎外された何者かを象徴している。
 鬼やらいは、古代中国・周の時代に宮中の悪鬼、悪疫を払った「方相氏(ほうそうし)」に始まるが、いつの間にか方相氏はやらわれる側の鬼となる。季語「鬼やらひ」はこの方相氏のあわれさを内包している。
 また、一茶の〈朧々ふめば水也まよひ道〉(『西国紀行』)が掲句の通奏低音となっているのではないか。一茶は四国行脚の途中、亡き師の友人を訪ねたところ、その人の死を知らされ、その夜の宿も断られ、この句を詠む。この時の途方にくれた一茶の気持ち、哀れさが掲句の鬼と重なる。
 句集『天球』は春夏秋冬を三巡させており、当然、最後は冬の句群で終わる。鬼やらいは冬の最後の日に当たるので時系列では当然だが、あわれさを纏うこの句がなぜ句集の末尾なのか私には分からない。(齋藤嘉子)