掲句に難しい言葉は一つもない。しかし、評者からみると謎が尽きない。まず、影法師は誰か。第三者ではなく作者自身だと考えたい。影法師というのは物理的な影だけでなく、心の有りようを含めて全人格を象徴しているとも取れる。
次に普通は影が映っているのは氷の上や氷の面であるのに、「氷の中」としているのはなぜか。氷の上の影なら作者と同じように動き、いなくなれば消えてしまう。しかし、中に入っていれば氷に閉じ込められていることになる。作者がいなくなっても影は残っているのかも知れない。
三つ目に上五の「あをあをと」という修辞の意図は何か。氷は白と形容されることが多い。敢えて「あを」としているのは、氷が水のように透き通っていることを表しているのか。否、「あをあをと」しているのは氷より影法師であろう。冬の寒さの中、自分の周囲には日が当たり影ができている、その様子を「あをあをと」としているのか。
飴山實に師事し、掲句を収めた『天球』を刊行するまでの作者は、句作の有りようを探っていたともいう。影法師がその頃の作者の人格を象徴しているとすれば、氷に閉塞されている自分であっても、日差しの中に、まだ遠いけれども、いずれやってきそうな春を感じている、その気持ちこそが「あをあをと」しているとも言える。平易な言葉からできている句だからこそ、読者には大きな余白が残されている。(臼杵政治)
「影法師」は、人の影のこと。池か湖に張った氷であろうか、そこに映る人の影が「あをあをと」していたのだ。黒いはずの影が作者には「あをあをと」して見えた。それは、真冬でありながら、太陽の光に春の兆しを感じたからなのかもしれない。その光のもたらす影を「あをあをと」と詠んだのかもしれない。
「あをあをと」はまた、人生の春の季節を生きる若い人の、この上ない「あをさ」でもあるだろう。
「氷にうつる」でもなく、「氷の中の」でもなく、「氷の中に」と詠むことによって、影法師が生き生きと動き、命を持っているかのように感じられる。氷の向こうに別の世界が広がっているかのようだ。
この「影法師」は、言うまでもなく30代前半の作者の自画像だ。(藤原智子)