「寒茜」とは冬の夕焼けのこと。束の間ながら寒中ゆえにその際やかな色彩は印象深い。釘という素っ気ない物質が、一つの箱に入っている。長いのも短いのも混じって乱雑に投げ入れてあるのであろう。この句、経年のために赤錆びた釘の一山が、まるで寒茜のようだという見立ての句として解することも出来る一方、真新しい艶やかな釘に夕陽が射し込んでいると読むこともできる。どちらにしても、冷え冷えとした釘の質感に茜色を点したことにより詩的な照応を生み出している。
重要なのは、「ことごとく」である。「釘箱」の全体から「釘」の細部へと読み手の視線を導き、「ことごとく」とリズムよく唱えさせている間に、いつのまにか主観に転じられ、作者の眼を透して、どの釘も余さず、一切が美しく茜色に荘厳される。「見るところ花にあらずといふことなし」(『笈の小文』)と言い切った芭蕉と同様の心眼で、作者は釘を茜色に染め上げる。(渡辺竜樹)
釘箱を開けるとなかの釘がことごとく赤く錆びついていたのだろう。釘箱の外に広がる世界も、夕焼けで同様に真っ赤に染まっている。釘の赤がさらにあざやかにみえてくる。また掲句を音にしてとらえなおすと、「KUGIBAKO NO KUGI KOTOGOTOKU KAN AKANE」となる。K音とG音が釘箱を釘が転がる音のようにも聞こえてくる。視覚と聴覚の際立つ一句といっていいだろう。
さらに、この句を読んで思い出すのは、尾崎放哉の〈釘箱の釘がみんな曲つて居る〉であり、飴山實の〈釘箱から夕がほの種出してくる〉である。前者は無季、後者は春の句(夕顔の種蒔く)になるが、併せて読むと、句の世界が広がってみえてくる。放哉の曲がった釘は凍えているようにも、實の夕顔の種には釘の赤錆がついているようにも思えてくる。
もちろん俳句は一句独立したもので、完成していなければならない。掲句ももちろん完成した一句である。しかし俳句は一句で「完結」するものだろうか。そんな問いが浮かんでくる。完結してしまったら、俳句はつまらない。ときとして独立した一句一句が、時空を超えた対話のように響き合うことがあるのだ。(関根千方)