一見、只事であるが、それを免れているのは、重なる「の」の働きであろう。これが「花過ぎに」や「花過ぎの朝に」であれば、句にならない。「の」を重ねることで、「花過ぎの朝のみづうみ」は、限定的な、唯一無二のみづうみという印象を纏うこととなった。
掲句は、第一句集『古志』の冒頭、一連の春の句に並ぶ、作者二十代の頃の句である。花過ぎの朝とは、まさに人生の春から初夏へ、青年期の終わりを象徴する時期であり、「花過ぎの朝のみづうみ」とは、一生に一度、その頃にのみ出会えるみづうみなのである。
その意味で、若き日の作者は、この句を明るく詠みながらも、もう二度と出会えないことを予感しているのではないか。その予感どおり、後から振り返れば、「花過ぎの朝のみづうみ」は、最早実在せず、ただ作者の心の中にある追憶に過ぎない。下五「見に行かん」が、心の中にみづうみを探す、後の作者の姿を表すようでもあり、句に広がりを与えている。(田村史生)
作者は湖を見に行こうとしているが、理由は明らかではない。読み手に分かるのは、その時期が「花過ぎ」かつ「朝」であることだけだ。しかし、読み手の想像力を刺激するに十分だ。
静まった水面に浮かぶ花びら。鳴き交わす鳥の声。澄み切った朝の空気。水面に反射する日の光はきらきらとしてやわらかい。きっと絵画のような美しい風景が広がっているのだろう。作者が見に行かんとしてまだ見ぬ湖について、読み手は永遠に想像を巡らせることができる。
仮に、下五が「見に行けり」だった場合、それはただの報告の句になってしまい、読み手は湖について想像を膨らませる自由がなくなってしまう。「見に行かん」と未来の句にしたことで、読み手を句の世界に誘うことに成功した。
「花過ぎの」とわざわざ言うからには、作者は花時の湖をすでに見ているか、どのようなものか知っている。花時の真昼や、花篝の出る夜の喧騒を避けた「花過ぎの朝」だからこその静かな美を味わえるのだ。句に描かれる風景だけでなく、その選択をした作者の人柄にも魅力を感じる。(市川きつね)