この句は難しい。一つ一つの言葉は、シンプルである。また、取り合わせではなく、一物仕立ての句であり、「春の水」=「濡れてゐるみづ」ということもすっとわかる。
しかし、この句に大きな切れがあることは、すぐにはわからない。そのために難しい。切れ字はないが、「春の水とは」のあとで大きく深く切れている。つまり、「とは」を境に、現実の世界から心の世界へ大きく飛んでいる。
「春の水」は現実のものだが、「濡れてゐるみづ」は現実の水を写しとったものではなく、春の水の本質をつかんだものである。それが大きな間を生んでいる。一句の中にある大きな間で、私たち読者は自由に春の光を愛で、春の水を掬うことができる。(藤原智子)
不思議な句である。単に「AとはBである」といえば散文的な説明になるのが普通だ。しかし、掲句には深い詩情がある。それは、「みづ」を修飾する中七の「とは濡れてゐる」という措辞による。
普通は物を濡らす主体が水、濡(らさ)れている客体が地面や岩、草花などである。にもかかわらず、水が濡れていると主客を転じて書き起こすことで、はっと考えさせる効果が生まれている。
では、なぜ水が濡れているのか。春の水、という修辞が鍵であるのは間違いない。冬の水のように凍ることも、夏の水のようにすぐ乾くこともなく、自在に広がる春の水ならば、自分で自分を濡らすこともできると言うことだろうか。そうであればこの自在な水、「濡れてゐるみづ」こそが春を象徴している。
下五の「みづ」は平仮名表記になっており、「水」だけでなく、若々しく、生き生きしているという意味を持つ「瑞」にも通じる。水だけに焦点を絞った挑戦的な言明によって、読者は若々しい春の景へ自由な想像を巡らせることができる。(臼杵政治)