「福島」は原発事故を含む東日本大震災を指すと同時に、普遍的な災害というもの(または集団的な死)の暗喩ともなり得る。震災以降、櫂は「福島」の語を度々句に詠み込んでおり、あたかも象徴化を試みているかのようだ。ここでは配列による意味付けについて考えたい。
『太陽の門』は、癌(個人的な死)からコロナ禍(集団的な死)までの句集で、掲句は後半の章Ⅵにある。この章は「屍」「死」「闇」「墓」といった語の散在で始まるが、徐々に日常の風景となる。そしてその日常の中に「福島」はいきなり置かれているのである。「福島」は日常の中に存在している。言い換えれば、決して過去の一事変ではなく、現在・未来に潜在するあらゆる天災・人災の象徴なのである。
しかし、「福島」はまだ生々しい言葉であり、象徴として定着するかどうかは我々日本人の今後の努力次第かもしれない。また、鑑賞上、一句の独立性という問題も考えなければならないだろう。(イーブン美奈子)
作者はいつでも私たちに覚悟を迫る。福島の惨状を知る私たちは誰も見捨てたなんて思っていないし、思いたくもない。でも作者は見捨てたのは自分だと自ら言っているのだ。そして私たちに対しても「あなたもそのうちの一人だ」と、恐ろしい顔で迫ってくる。実際に見捨てたかどうかは問題ではないのかもしれない。見捨てたと思うべきだと言っているのかもしれない。人間はそんな残酷なことも簡単にできてしまう生き物だよと。
雪へ雪・・・。罪へ罪・・・。罪は罪のような顔はしていない。悪いことをする人はそう悪い顔はしていないものだ。何と恐ろしい。そう、真っ白い雪のような一見何も害を与えないというような顔をして。しかし、一度降り出せばそれは際限なく降り積もり、かつて積もった雪さえ覆い隠してしまう。そして人間の営みの基盤である家の屋根さえ押しつぶす。
かの日の福島はその地名のもとにある都合の悪い事実だ。私たちが隠した都合の悪い事実、そこに積もった雪にさらに雪が降り積もる。私たち人間の罪をも覆い隠すように。そして福島を見捨てた私たちは降り積もった雪を見て言う、「なんてきれいな雪景色」。私たち人間はそんなことを延々と繰り返してきたのかもしれない。(三玉一郎)