大きく非情な自然詠のようだ。鳥瞰図の風景が目前に広がる。黒々とした山に囲まれた長大な湖あるいは大河の水面に月光が白々と光る。その巨大な水の塊は確かに「龍」を想起させる。
東洋伝来の想像上の動物「龍」は、水中、地中に住み、時に空中を飛行し、雲や雨、稲妻を司る神獣、瑞獣とされる。その「龍」が、骸の最後である「骨」の儚さと結びつくや、最初の自然詠の印象がゆらいでくる。つまりこの句がわかりにくくなるのだ。
一方、この句を一句としてではなく、句集の中に置いて見ると、前後の句〈いくばくの肉奪はれてけふの月〉〈句集読みて妻泣くなかれ鰯雲〉によって、死のイメージがより濃くなり、死の恐怖から諦念へと移行していく作者の意識の流れも感じられてくる。そこでのより人間的な側面にも惹かれる。
しかし、やはりこの句は一句として、非情な自然詠とよむ方が相応しいと考える。(越智淳子)
龍は想像上の動物であり、その霊力は何千年も前から神話として伝わっている。寺の天井にはよく龍の絵が描かれている。雲を起こし雨を呼ぶというその姿はダイナミックで凄みがある。天井画の龍は、どこから見上げてもその大きな目玉で睨んでくる。その眼力から逃れようがないと畏怖の念が湧き上がる。
そのような体験をしているからか、想像上の動物ながらリアルな存在感を感じるのだ。それゆえ、龍の骨と言われても違和感なく想像できる。大いなる龍の骨が心に浮かぶのだ。
神話に登場する龍の骨なら、何千年も月の光を浴びつづけてきたと想像できる。野ざらしというより「月の光に埋もれけり」がふさわしい。
句集の前後の俳句の並びから、櫂の死に対するイメージがこの句を生んだのだろうかとも思ったが、一句独立で、見えないものを見えるように表現した句として味わいたい。作者が感受したものを読者も感受できる句だと思う。(木下洋子)