青空のはるかに夏の墓標たつ『太陽の門』

 本来、青空は誰の墓場にもなり得ない。墓標はそこに遺体が埋葬されたことを示す。ならば、なぜ遺体が埋まっているはずのない空に墓標が立つのか。墓標を立てるのは死者に対して弔いの心を持った生者にしかできない。この句は地上に墓標の無い故人、何らかの理由で埋葬の機会が与えられなかった死者への追悼の念を表すのだろう。すぐに思い浮かぶのは海外戦没者だ。青空の墓標は彼らの魂そのものに向けられている。
 しかし「青空のはるか」という言葉の選択は安易だ。「青空」と「夏」という馴染みの良すぎる語を一句に盛り込んだことについても疑問を持った。死者に思いを馳せるのに空を持ち出すのもありきたりだ。
 海外戦没者の遺骨発掘事業は、故人を自身の手で弔いたいという遺族や支援者の強い思いによって継続されている。彼らにとっての墓標は自ずから「たつ」のではなく、立てたときにこそ意味を成すのだろう。(市川きつね)

 理屈で言えば「夏空に墓標」で済むところ、あえて、「青空のはるかに夏の墓標」と言葉を尽くしている。それでも冗長な印象を与えないのは、下五の動詞「たつ」の働きであろう。ここに緊張感が生まれ、作者のどこか切迫した思いが窺われる。
 句集でこの後に続く句が〈八月や一日一日が戦の忌〉であることからも、夏の墓標とは、広島忌、長崎忌、敗戦忌につながるものであろう。青空のはるか向こうに、時空を超えて存在する無数の墓標。日本人が共有してきた鎮魂の思いである。ただ、この句のテーマがそれだけとは思えない。
 フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは、人の死を「自分の死」「近親者の死」「他人の死」の三つに区分した。この句には、「他人の死」(戦争を知る世代にとっては「近親者の死」)だけではなく、「自分の死」も含まれているのではないか。作者の心の中にも青空が広がっていて、そのはるか奥に、死が予兆されている。夏の墓標とは、作者が見つめている、作者自身の墓標でもあるのだ。(田村史生)