掲句の次に〈ごろごろと鳴門金時藷の箱〉とある。何て大らかで心豊かな二句であろう。八百屋の店先に無花果が並び出した。初物だ。是非あの方に召し上がってもらおうと送ると、程なくその方から鳴門金時藷が届いたのだ。徳島の方であろうか。こちらまで何やら愉快な気分になる。作者の真心あるお付き合いぶりも彷彿させる句である。
句材は何も大そうな処にばかりある訳ではないのだ。日常に潜んでいるのだ。日常を面白がることこそ、豊かな人生なのである。掲句を何度も声に出してよんでみた。無駄な助詞もなく、しっかりとした骨格だ。読み手にどんと迫り来る。
『嘔吐』の中でサルトルは書く。「はっきり理解する為に日記をつけること。取るに足りぬことのようでも色合い、小さな事実を見逃さないこと。どういう風に私が見ているかを記すべきだ。」と。かけがえのない人生、俳句を通して日常の尊さに改めて気づくという再発見であった。(谷村和華子)
知人に無花果を送ったら、お返しに藷が送られてきたという句である。無花果や藷に深い文学的な意味があるのではとか、何かの暗喩ではないかと考える必要はないと思う。無花果と藷の質感の違いは面白いが、日常的によくあることを素直に表現した句である。
句集を星空と考えると、氏の句集は眩いばかりの多くの一等星がちりばめられた夜空である。その中では、この句は目を射るような明るい輝きはない。しかし、北極星もオリオン座の三つ星も一等星ではないが、夜空では重要な位置を占めているし、多くの人々が知っており、愛している。
句集を作るとき、どのような星をどのように置くかは作者の腕である。その配置をどのように読み解くかは読者の腕である。明るい星ばかりでも、明るくない星ばかりでもよい句集ではないだろう。さまざまな明るさ、大きさの星々がバランスよく配置されれば、読者はそこに星座を発見し、物語を想像できる。ほどよい明るさをもつ、このような句の展開を秘かに楽しみにしている。(稲垣雄二)